村で何人まで把握できるかな。
100超えると一人一人の名前や顔やこれまであったことなど、
記憶できなくなりそうだ。
(一説には150までいけるという話もある)
これを越えてしまうと、集団は一つの人格みたいになってしまう。
宗教がまずそれをまとめた。
とある神に帰依している、〇〇のような生活スタイルをする手段であると。
会社の経営理念もそれと同じだね。
大企業になればなるほど、ブランディングをしっかりする。
それは150人以上をまとめるためである。
つまり、
150以上になった集団には、ある種の人格が発生する。
これが、偏見や差別の温床だと僕は考えている。
「大阪人はおもしろい」という偏見で考えようか。
まあ偏見でなく事実でもあるのは認めるが、
「おもしろくない大阪人」もいるんだよね。驚くべきことに。
大阪基準でおもしろくないだけで、
東京に来るとおもしろいの当落線上から上にいくかもしれないが、
まあそれでもおもしろくない大阪人は存在するのだ。
にも拘わらず、
「お前大阪人のくせにおもろくないな」という場面は、
偏見と差別になっているわけだ。
100人の村にいたら、
別に面白くないやつもいるだろうことはわかるのに、
それが「集団」になった瞬間、
その集団はすべからくそのような性質を持っている、
と思い込むことで、
人は認知の負荷を下げているんだろうね。
もし女が100人しかいなかったら、
「女というものは」という偏見がないと思う。
黒人でも外国人観光客でも同様だろう。
100人を超える集団になっているから、
もう一人の人格としてみるしか、見れないのだろう。
偏見や差別を崩すひとつのやり方として、
「〇〇はこういう人たちばかりではない、
××な人もいるのだ」というのは、
100人以上の集団人格になったところから、
100人以下の人を取り出してサンプリングする、
という村に還元するやり方であろう。
逆に、ブランディングというのは、
人格としてどういう人なのか、
というのが大事だと思う。
キャラとして立っていることが大事だと思うわけだ。
たとえば企業で「未来へ進む、たのしい企業」
とかのスローガンは糞なわけ。
どんな企業にも当てはまる、キャラが立っていないスローガンだからだ。
それは内部しか見ていない。
外にどんな人格がごろごろ転がっているかが分からないと言っているようなものである。
つまり知見が狭いのだ。
「明日のもと、味の素」というスローガンはすごく好きだった。
食べるものが命になるということがよくわかるからだ。
逆に、個性あふれるブランドが合併してしまうと、
よくわからなくなる。
一時期、セガとナムコが合併しようとした時期があって、
絶対無理やろ、キャラが正反対やないか、
と思った記憶がある。
(実際、合併は実現しなかった)
セガはアメリカンで大味で豪快なものを好み、
ナムコは繊細で知的な渋いものを好む。
それが合併したらよく分からなくなる。
人格が融合するはずがない、ということだ。
このように、集団にも拘わらず、
キャラとか心理学のようなものを適用して、
人は集団を見るわけだ。
だから、偏見や差別は、
ブランディングされた集団と、そうではない個人との間に起こるわけだ。
「大阪人はおもしろい」というブランディングと、
大阪で生まれたおもしろくない人には、
はげしいアイデンティティクライシスが発生する。
これを、大阪でないものでやると、
多分ストーリーとしておもしろくなると思う。
(おもしろくない大阪人の話も面白そうだけど)
どんな集団のどんなブランディングがある?
因習が強い村から一人だけ脱出する、とかは、
よくあるホラーのテーマだよね。
ホラーでなくても、一族がどうのこうの、というのは、
中世からあるテーマになる。
所属する会社、一族、その他集団
(自治会とか、サークルとか、バンドとか、美人集団とか)
と、個人の間に、
キャラの齟齬があるときに、
偏見や差別を描くことが可能だ。
その新しい視点をつくったら、
新しい差別の物語をつくることができると思う。
それが障碍者とか黒人とかは、典型すぎて面白くないから、
新しい差別を創造するのは悪くないと思うなあ。
SFが生まれたとき、〇〇星人と〇〇星人は仲が悪く……
と、白人と黒人の話をまったく違う星人の話に転換してしまったことがよくあったが、
それはあからさまだとわかってきたので、
次の方法論が求められることだろう。
2025年07月16日
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