2025年07月22日

まるでそれが世界のすべてのように

物語で扱う世界というのは、有限である。
しかしそれが無限のように見えているとよい。


どう考えても有限の文字数だ。
世界の果てから果てまでも有限だろう。
ジョジョ4部は杜王町しか出てこない。
「CUBE」はヘンテコな四角の異空間のみの映画だ。
そんな例外的なものを出さなくても、
「現代、〇〇町」みたいなふりをしているものだとしても、
物語世界は常に有限である。

だけど、どんなに狭かろうが、
それを無限の世界に見せられるものがおもしろい。
なぜなら、世界は無限の可能性に満ちているように見えたほうが、
ワクワクするからだ。


第二幕でストーリーは非日常世界に移行するが、
その世界もほんとうは有限なのだが、
まるで無限に見えるほうが楽しくなる。
遊園地が有限広さしか持っていないのに、
まるで無限に広いように錯覚したほうが楽しいことに似ている。

「借りぐらしのアリエッティ」だって、
机から庭までの人間から見たらわずかな世界だけど、
小人たちにとっては、
あるいはストーリーにとっては、
無限の広さに見えているわけだ。
(映画版はクソなので見なくて良い)


だから、扱う世界の実際の広さは、
物語の中では関係ない。
好きな子と席が隣になったら、
机二つ分が宇宙になるだろう。
そういうことだ。
もし喧嘩してしまったら、
机二つの距離が、無限に遠くなるだろう。

つまり、
世界の広さは、客観ではなく主観である。
それをどのような広さに感じるか、
ということが物語だとも言える。

「歪んだ認知」といえばそれまでだね。
僕らの認知は1平方メートルを1平方メートルとしては、
捕らえていないんじゃないかな。

四畳半が宇宙になったり、
東京が大したことない広さであると思ったりすることができる
(たとえば業界が狭くて案外つながっているとかね)、
というわけだ。


空間を伸び縮みさせよう。
リアルの縮尺とは関係ない世界をつくろう。
その時に、リアルの縮尺はどれくらいかはわかっておくとよい。
嘘をつく基本は本当を知っておくことだからね。

小学校の机の幅は65センチだそうだ。
たった130センチの中に宇宙があるよな。


世界を描くコツは、
端から端を意識することだ。
端から端へ移動するときが、
もっとも距離がある移動ということだ。
その時が物語のどこかであることだと思う。
心理的距離が最も遠いとき、
世界の端から端まで移動しなければいけなくなり、
世界は無限の広さをもって目の前に現れるだろう。

人間関係というのは案外狭くて、
3ステップないし4ステップあたりで、
日本人全員に繋がることができるらしい。
つまり、
知り合いの知り合いの知り合いを辿る旅が、
実は一番遠い旅ということになる。
案外狭いね。
これを日本人全員の中から探さなければならない、
みたいに錯覚させると、
無限の広さを感じさせられるよね。


物語では、
世界は有限だ。
時間も有限だ。
だがまるで無限のように錯覚させているから、おもしろいのだ。
あなたの物語の世界は、空間的に広がって見えているだろうか?
時間的に広がって見えているだろうか?
たとえば出てきていないものがあって想像してしまったり、
出てきていない時間のことがあって想像してしまったりするだろうか。
するならば、
実際のスケールよりも広く見えているということだ。


実尺スケールが小さいからといって、
物語のスケールをそのままにしたら小さくなってしまう。
うまく大きくすることだ。
なお、半径2mの人間関係の話はちまたに溢れすぎているので、
もっと狭いかもっと広いと、
新しいスケールを提供できると思う。
posted by おおおかとしひこ at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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