2025年07月30日

フィクションは願望を叶えるためにある

極論、フィクションというのは現実逃避のために見る。
夢想の世界に遊ぶためにある。
じゃあ、その夢想が自分の願望になっているほうがいい。


そういうのはポルノという。

自分の夢想というのは、現実ではなかなか叶えられないことだ。
アイドルと結婚したいとか、
社長になりたいとか、
喧嘩ナンバーワンになってUFCで優勝したいとか、
セレブになってブイブイ言わせたいとか、
異世界で活躍したいとか、まあそういうやつだろう。

なかなか叶えられないから、
夢想するわけだ。

そして、現実から遠いほど夢想の価値は上がる。
「自分で実現できないこと」こそが夢想の定義になるわけ。
だから、夢想の価値としては、現実で不可能なことほどよい。

古今東西の物語で永遠の命や死んだ人に会うのがテーマになるのは、
そういうことだと思う。
誰も永遠の命を持っていないし、誰も死んだ人と会っていない。
世界征服もそうだ。
まだ人類で地球の王になった人はいないね。


で、そのフィクション世界で、
現実の実現可能性を飛び越えて、
簡単に実現してしまうものをポルノという。

アイドルのパンチラが見えたり、セックスできたりするわけだ。
異世界に飛ばされてヒーローとして活躍するわけだ。

大人にはポルノを自由に見る権利がある。
それは現実はポルノのように都合よくいかないことを知っているから、
ポルノはポルノ、現実は現実と、
区別できると期待されている(出来るとは言っていない)からである。

ポルノに毒されるようなやつは、
大人の実力を持っていないやつである。



さて。
映画はポルノではない。
ポルノ的なものはご都合主義と呼ばれ、忌避される。

現実にできるかどうかはおいといて、
その世界の中でそれが実現するからには、
相応のリアリティが必要だ。
アニメなら多少緩いが、実写はかなり厳しい。
「そんなことあるわけないやんけ」と思われたらおしまいだ。


アイドルと結婚することがあるわけない、
というわけではない。
アイドルと結婚したら起きることが起きないと、
リアルではないと思われる。

つまり、どうやってアイドルと知り合うのかとか、
彼女がどういう状況や闇を抱えてるのかとか、
そこからどうやって恋に落ちるのか、
つまり1人の女としての恋をどう描けるかとか
どうやってファンにバレずに付き合うのかとか、
結婚発表後どうやって責任を取っていくのかとか、
そういうことがいちいちリアルではないと、
ご都合と思われるだけのことだ。
(本当でなくてよい。本当らしければ信用される)


だから、映画はポルノよりも難しい。
夢想がご都合にならないようにしなければならないからだ。

じゃあ、飛べる高さは低くならないか?
そうだよね。リアリティが必要ならば、
アイドルと結婚できるのは無理があるから、
アイドルのパンチラを見れるまでくらいしかできないのではないか、
という心配である。

「やりようだ」と僕は思う。
リアリティの枷がかかっているが、
それを突破するのである。

むしろ、夢想のレベルと、枷のレベルと、突破のレベルが、
全部高いのが映画であるべきだと思っている。


ポルノは夢想だけで、枷も突破もない。
だからつくるのは簡単だ。
気づいたらアイドルとセックスしていればよい。
だが映画はそうではない。
綿密に、それが本当にあるとしたらどういう経緯で、
なぜそうなるのかをきちんと詰めたうえで、
リアリティある熱情をつくるのだ。
(アイドルと結婚する映画が少ないのは、
やはりリアリティを構築することができなかったからだろう)


さて。

ここまで来て、
僕はポルノに負けるような、夢想のレベルの低いものをつくるべきではない、
と言いたいわけだ。

ポルノよりもリアリティの構築が難しいのに、
夢想のレベルもポルノよも高みに行くべきだ、
というのは難しすぎないか、という心配もわかる。
でもそれを突破するのが、映画というものだ、
と僕は考えている。

エロに関しては、
ひょっとしたらポルノに負けるかもしれない。
モロにエロを映画でやるわけでもないし。
おそらく映画が扱う領域は、
エロでないなにかを、ポルノレベルまで極めた夢想だ。

スーパーマンになりたい。
ある日社長になったら。
ある日恐竜が襲ってきたら。
モテモテになったら。
古代の封印を解いてしまったら。

ベタなやつを上げてみたが、これ以上がほしい。
夢想のレベルとして高いものをつくれ、
ということだ。


そして、たぶんだけど、
「まだ誰もフィクションで実現していない、
新しい夢想」を思いついたときに、
オリジナルの夢想をつくることができると思う。


「9年間休載している国民的漫画の続きを、
勝手に最終回までつくってしまう」というのは、
誰もが思っているかもしれないが、
まだ誰も具体的な形としてつくった訳ではない。
「ベルセルク」の三浦健太郎の跡を継いだ、
森恒二が頑張っているくらいかな。
これは最近書いた脚本のおおまかな構想である。


あるいは「ドラえもんの最終回」というやつもあった。
(ある日ドラえもんが停止して、のび太が直すために勉強を始めて、
大人になって博士になり、未来の世界でドラえもんを再起動する話だ)


こういう、新しい欲望、新しい夢想、
新しい(エロでない)ポルノを考え出すのだ。

そして、単なるご都合のポルノに陥らないように、
リアリティを詰めて行くのである。

なんという難しさだろう。
でも、それが新しい物語をつくるということだ。


フィクションは、願望をかなえるためにある。
新しい願望を思いつけ。
そして、ポルノに陥らずに、リアリティを詰めてゆけ。
最後に残るのは、
純粋なる熱情だと考える。
posted by おおおかとしひこ at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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