2025年08月08日

新作を書くということは、自分の別バージョンの人格分割をつくること

僕は、キャラクターたちは自分の人格のある面を強調したもの、
だと思っている。

つまり悪役は自分の中の悪の部分を芯にして、
別の要素を足して増幅したもの、
正義の役は自分の中の正義感を芯にして、
別の要素を足して増幅したもの、
などのようにだ。


つまり、
ある作品を書くときに、
自分の人格を分裂させる。

全部を投入できない
(作品=自分になってしまう)ので、
仮に100のうち70を投入するとする。

このうち主人公に30、
悪役に30、その他に10投入しようか。

自分の中のそのキャラっぽい部分、という意味だ。

その作品の中での、正義vs悪の軸に、
乗っかってない人格での、正義vs悪はあろう。

仮にその作品が不正と暴露の話であれば、
立ちしょんべんの悪の人格や浮気の悪の人格は、
悪役には入らない。
70投入した残り30に、そういうものが残ろう。

あるいは、「仲間を見捨てない」は、
正義でも悪でもないから、
悪役も主人公も、このストーリーの場合持ってる場合もあろう。

この場合、人格の分裂は両方に入ることになる。


で。
キャラクター造形でいうと、
30しかない人格は、100から見たら足りないので、
70を創作していく。

生まれ、性格、家庭環境、過去、趣味、特技、
トラウマの経験、初恋の経験、
成功体験、失敗体験、
哲学、世界観、信条などなど。
(全部を創作してもいいし、
ストーリーに関係する強い部分を強く創作しても良い)

そうすると、
芯は自分の一部だが、
ほとんどの人生経験は異なる、
「自分の魂の分霊ではあるが、
それは人格の一部に過ぎず、
別の世界線で生きたので70%は違うものをもってる人格」
ができあがる。


以下、ストーリーの重要度に応じて、
色々なキャラクターを造形する。

共通点はほとんどなくなる。
自分の人格の、○○的な部分をそのキャラクターに割譲したのだから、
別のキャラクターには自分の別の部分を割譲している。

このようにして、
作品を一本書くと、
自分の人格の分割のセットがひとつきまる。

一種の箱庭療法だ。
物語が人の心を癒すのには、
このような仕組みが関係していると僕は考えている。



さて、別の作品である。

別の作品は別の作品なので、
また別の人格の分割のセットがあるわけだ。

別の正義vs悪を書くなら、
前とは異なる描像になる。


逆の分かりやすい例を考える。
藤子不二雄Fは、このセットをあまり変えなかった人だ。

ドラえもん的な人格、のび太的な人格、
ジャイアン的な人格、スネ夫的な人格、しずかちゃん的な人格。

作品によって多少の異同はあれど、
大きくはこのセットが常にいる。

(たとえばキテレツではキテレツが出来杉人格で、
コロ助はのび太人格であるなど)

だから藤子不二雄は、
作品を書くときにあまり人格の分裂を気にせず、
エピソードのみに集中できたのではないか。

並行して何本も連載することがあったから、
やりやすいやり方でそうなったのだろう。
思いついたエピソードの使い回しをしてたかもしれない。


だけど映画はそうではない。
仮に同じ分割セットに出会ったら、
「またか」と思うのではないか。
「これ見たことある」と。

これは、
同じ世界をループする連載漫画と、
一度きりしか出会わない映画の違いだろう。
次に出会う映画はまた別世界であることが期待されているからね。

もちろん王道セットみたいなのは人によってあって、
藤子不二雄はその王道セットを変えなかった人だ。
(だけど王道セットの中にない作品が、
魅力的だったりする。エスパー魔美とか、SF短編集とか。
使い分けてたのかもしれない)


もしあなたの中に王道セットがあって、
毎回それを使ってるのだとしたら、
別の人格セットを試みるとよい。

やったことないから、
初めは怖いかもしれないが、
まあいずれ慣れる。
全員初めましてだと怖いので、
前の王道キャラをゲストとして呼んでも良い。
でも前の作品と同じ活躍をさせると同じだから、
前とは異なる活躍を用意するべきだろう。


そもそも、
映画というのはカタルシスをもって終わるので、
すべての分割人格は成長して終わる。
それゆえ作者の人格は統合されて終わる。

だから続編はないし、
同じ分割セットは二度とできないものだ。

同じキャラが別作品に出てきたら、
そのキャラはまだカタルシスを迎えておらず、
成仏してないってことだよな。


なので、
いったん統合された脚本家の人格は、
また別の物語を前に、
それに適した分割をはじめるはずだ。

前残した30の一部は使うだろうし、
前使った70の半分くらいは使わないかも知れない。
要素を入れ替えて、
配合も変えるだろう。

そもそも70も投入しないかもしれない。
30くらい投入かもしれない。
なぜなら、一本書いたら燃え尽きてしまい、
次を書けなくなるからだ。
30投入であれば、残り70の中から30を見繕ってもってくれば、
全く異なる人格たちのお話が書けるだろう。

もちろん、自分の核は薄くなるが、
その分設定をきちんとつくって、
人格として練り上げていけばいいだけのこと。


自分を書くのはまだ未熟で、
こうした「別人格をつくる」の、
技術が足りてないだけかもね。



これは短編ばかりやってても難しいかもしれない。
何本か長編を書いてはじめて分かることだ。

「こいつ、いっつも同じキャラを書いてるな」
と客観的になれたらしめたものだ。
別のキャラはどこから来るのか、
自分の心の中と相談だ。

自分と重ね合わせすぎると、
「自分のまた別の転生人生」
みたいになってしまうので、
同じ展開を望んだりする。
それは飽きられる。
まったく異なる話を書くには、
まったく異なる人格同士の話にしたほうが手っ取り早い。


この人の持ちキャラはたくさんあるなー、
と思われるのはとてもよいことだ。
分割の仕方をたくさんもっている、
ということだからだ。

同じキャラの同工異曲を書いてもしょうがない。
それは飽きられる。
一度ヒットした作品と、
似たようなキャラの別の話しか書けずに、
それにすがっているように見える人もいる。
それは、この人格分割セットのことに、
自覚的でないかもしれない。


まあ、あんまりやりすぎると多重人格になるかもしれないので、
複雑な作品の同時進行はお勧めしない。
書き始めたら完結させ、
カタルシスを迎えて、
統合することだ。

手癖のキャラが出てきたら、
今回はそれではない、と引っ込めることだね。
posted by おおおかとしひこ at 09:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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