ラスト近辺をもう一度チェックしよう。
〇〇なコンセプトで始めたものである。
それが面白そうと思って、始めたものである。
色々あって、主人公たちは変化した。
で、変化し過ぎて、
〇〇というコンセプトを最後忘れていないか?
というチェックをしようということだ。
はみ出したら、逸脱したと思うか?
それとも、枠を超えてよくなったと思うか?
それは、コンセプトとはみだし次第だと思う。
仮にミステリーで始めたら、
犯人逮捕と、殺した動機のことがテーマになり、
〇〇殺人事件というコンセプトで閉じるだろう。
これが急にコメディになったり、
ラブストーリーになることはない。
人が死んで逮捕されているのに、ドッカンドッカン笑うことはないし、
急に探偵と依頼人がキスして終わるわけではない。
明らかなコンセプトであればあるほど、
「そのコンセプトなりの終わり方」が必要とされていると思う。
これはハッピーエンド、バッドエンド関係なくそうだろう。
人類の希望が託された、
というコンセプトならば、
その希望が実現したのか、絶望だったのか、
が重要であり、
主人公の成長や変化とともにそれが描かれるべきである。
主人公が変化した結果、
人類の希望はどうでもよい、
というエンドになってはいけない、ということだ。
コンセプトはいわば、
旅に出る理由でもある。
こういう旅をします、という旅行会社のパッケージングでもあるわけだ。
だからその旅はこのように終わりました、
というコンセプトがずれてはいけないのだ。
現実での人生では、
このコンセプトがどっかに行ってしまうことはままある。
〇〇という理由で始めたのに、
それはいつの間にかどこかに行ってしまっていることがある。
だからこそ、
始まりと終わりという枠組みをもつ、
有限長さのフィクションストーリーは、
コンセプトをひとつに、明確に持ち、
それを最後まで貫いたほうが、
「ひとつのものとして強くなる」ということだ。
東京五輪は、
そもそも「福島の復興」というコンセプトで始まった。
しかし蓋をあければ嘘つきの中抜きがコンセプトであった。
これは、コンセプト違いというか、
コンセプトが貫かれていなかったわけ。
もしコンセプトが貫かれていれば、
福島の原発前をマラソンしてもよかったはずだ。
それが無理なら、
復興した都市マラソンでもよかったけど。
プレゼンしたときのコンセプトと、
まったく違いました、でいいのかよ、ってみんな思うよね。
プロポーズもそうだ。
「あなたを幸せにします」なんてプロポーズして、
途中不幸にしたりどうでもよくなっていたら、
その結婚の意味とは、になってしまう。
コンセプトずれになってしまうわけ。
男女が付き合うことにあまりコンセプトはないけど、
フィクションのストーリーでは求められることもあるよね。
「これは浮気というコンセプトである」というやつが、
思ったより燃え上がってしまうこともよくあるだろう。
これは裏腹だから面白いわけだ。
そんな風に、
首尾一貫したコンセプトで答えを出すべきだ。
それが貫かれたかどうかわかるのは、
終わり方、ということになる。
ラストシーンやラスト前あたりで、
これはこういうコンセプトでしたよね、
という終わりの暗示があってもよいし、
なくてもいいから、少なくともコンセプトがずれて終わるべきでなない。
あー、気持ちよかった、
〇〇というコンセプトで楽しめた、
というのが正しい観客の反応であり、
それを導き出せていないのは、
「期待に応えていない」ということでもある。
主人公たちはどう変化するのか。
その結果、コンセプトがずれていないか。
そこから脱することがその映画の趣旨か。
そこに帰着して、コンセプト死守が趣旨か。
それをはっきりさせてから、
リライトをするべきだろう。
2025年08月10日
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