2025年08月10日

コンセプトは最後まで貫かれているか

ラスト近辺をもう一度チェックしよう。


〇〇なコンセプトで始めたものである。
それが面白そうと思って、始めたものである。
色々あって、主人公たちは変化した。

で、変化し過ぎて、
〇〇というコンセプトを最後忘れていないか?
というチェックをしようということだ。

はみ出したら、逸脱したと思うか?
それとも、枠を超えてよくなったと思うか?
それは、コンセプトとはみだし次第だと思う。


仮にミステリーで始めたら、
犯人逮捕と、殺した動機のことがテーマになり、
〇〇殺人事件というコンセプトで閉じるだろう。

これが急にコメディになったり、
ラブストーリーになることはない。
人が死んで逮捕されているのに、ドッカンドッカン笑うことはないし、
急に探偵と依頼人がキスして終わるわけではない。

明らかなコンセプトであればあるほど、
「そのコンセプトなりの終わり方」が必要とされていると思う。


これはハッピーエンド、バッドエンド関係なくそうだろう。

人類の希望が託された、
というコンセプトならば、
その希望が実現したのか、絶望だったのか、
が重要であり、
主人公の成長や変化とともにそれが描かれるべきである。

主人公が変化した結果、
人類の希望はどうでもよい、
というエンドになってはいけない、ということだ。


コンセプトはいわば、
旅に出る理由でもある。
こういう旅をします、という旅行会社のパッケージングでもあるわけだ。
だからその旅はこのように終わりました、
というコンセプトがずれてはいけないのだ。

現実での人生では、
このコンセプトがどっかに行ってしまうことはままある。
〇〇という理由で始めたのに、
それはいつの間にかどこかに行ってしまっていることがある。

だからこそ、
始まりと終わりという枠組みをもつ、
有限長さのフィクションストーリーは、
コンセプトをひとつに、明確に持ち、
それを最後まで貫いたほうが、
「ひとつのものとして強くなる」ということだ。

東京五輪は、
そもそも「福島の復興」というコンセプトで始まった。
しかし蓋をあければ嘘つきの中抜きがコンセプトであった。
これは、コンセプト違いというか、
コンセプトが貫かれていなかったわけ。
もしコンセプトが貫かれていれば、
福島の原発前をマラソンしてもよかったはずだ。
それが無理なら、
復興した都市マラソンでもよかったけど。
プレゼンしたときのコンセプトと、
まったく違いました、でいいのかよ、ってみんな思うよね。

プロポーズもそうだ。
「あなたを幸せにします」なんてプロポーズして、
途中不幸にしたりどうでもよくなっていたら、
その結婚の意味とは、になってしまう。
コンセプトずれになってしまうわけ。

男女が付き合うことにあまりコンセプトはないけど、
フィクションのストーリーでは求められることもあるよね。
「これは浮気というコンセプトである」というやつが、
思ったより燃え上がってしまうこともよくあるだろう。
これは裏腹だから面白いわけだ。


そんな風に、
首尾一貫したコンセプトで答えを出すべきだ。
それが貫かれたかどうかわかるのは、
終わり方、ということになる。

ラストシーンやラスト前あたりで、
これはこういうコンセプトでしたよね、
という終わりの暗示があってもよいし、
なくてもいいから、少なくともコンセプトがずれて終わるべきでなない。

あー、気持ちよかった、
〇〇というコンセプトで楽しめた、
というのが正しい観客の反応であり、
それを導き出せていないのは、
「期待に応えていない」ということでもある。


主人公たちはどう変化するのか。
その結果、コンセプトがずれていないか。

そこから脱することがその映画の趣旨か。
そこに帰着して、コンセプト死守が趣旨か。

それをはっきりさせてから、
リライトをするべきだろう。
posted by おおおかとしひこ at 10:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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