すべての芸術の源はこれかもしれないと思っている。
「作者の言いたいこと」とかいうやつは、
芸術をつくったことのないやつだと思う。
作者の言いたいことなんてたった一つだ。
私を理解してくれ、だと思うよ。
あとは、その芸術の中に入れこまれているモチーフを、
「俺はこれが好き」といっている程度だろう。
〇〇は〇〇で〇〇なのだ、なんて高尚なテーマが隠されている、
なんてのは芸術にテーマが存在しなければならない、
と思い込む教条主義者なんじゃないか。
そんなものないのだ。
ある場合もあるけど、必ずしも、というわけではない。
実際に、奥底に潜むのは、
私を理解してほしい、なんじゃないかと思うよ。
自分の良いと思うものが、良いように描かれているわけだし、
私はこれを良いと思う人間です、
という告白だと思うと、
芸術は理解できる。
(だから芸術はAIのものではない。
すべてのディテールを、その美意識がコントロールしていなければならない)
さて。
映画は純粋芸術ではない。
だけど、芸術的な側面がないと物足りなくなる。
その「芸術的な側面」といっても、
訳の分からない理論でけむに巻かれるだけなので、
僕は、その面を「私はこれを良いと思う」という感覚だととらえるとよいと思う。
それは、ユートピアや輝くようなものから、
暗くじめじめしたものまで、さまざまにあってよいと思う。
人間は明るいだけでなく暗い面も持っているから、
芸術にその優劣はない。
あるとしたら、出来がよいか悪いかという問題だけだ。
陳腐だったり、その他の芸術に負けるほどの技術ならば、
その芸術はしょうもないというだけだ。
世界はこうあるべきだ、という考え方だったり、世界観だったり、
人間はこうあるべきだ、こういうものがいいよね、だったり、
テーマがこれがよい、と思うものであったり。
どのように表現されていてもいいが、
そういう強い何かに貫かれているのが、
よくできた芸術というものである。
で。
映画は純粋芸術ではない。
大衆娯楽の側面ももつ。
このときに、
「余計な芸術意識は邪魔」というときだってあるわけだ。
今爆笑したいときに、芸術はどうでもいい、
ということだってある。
逆に、単なる爆笑やコントに飽きてきたときに、
芸術を見ることはとても刺激になるわけだ。
実のところ、大衆芸術とは、
純粋な芸術と、純粋な娯楽を、
手を変え品を変えて、うまく融合させたものである、
と考えるとわかりやすくなる。
単純な二項対立だと、
映画は芸術である、文学である、第七芸術である、なんてものと、
映画は金もうけである、スターのものである、客を呼んでなんぼである、なんてのが、
対立するように思えるが、
そんな両極端は、どっちもつまらん、というのが僕の考えかな。
芸術だけだとしみったれてて、全然楽しみがない。
娯楽だけだと楽しいけど浅い。
楽しみがあり、深いものを、
みんな求めているはずだ。
そこを理解しない人たちが、
やれマーケティングだっていって、
表面的な娯楽要素を分解して、
〇〇が足りているとか〇〇が入っていないとか言ってるのは、
ちゃんちゃらおかしい。
映画を分かっていない証拠じゃないか。
逆に、えらい人が、
これは芸術であり、崇高な〇〇が表現されていて、
なんていうのも同じくらいちゃんちゃらである。
そんな分りにくいものを映画は欲しない。
もっと単純な、「人間ってこうだよね」「こういうものを私は良いと思う」
という根源的なものだったりするのだ。
そこには、私を理解して、があると思うと、簡単だ。
きみはこれがよいと思うのだな、ということだからだ。
芸術主義的につくられたものが、
商業主義で汚されることはよくある。
それは、すべてのディテールが一つの美意識で貫かれているものに、
余計なノイズが入って台無しになるからだ。
シミ一つない白い砂浜にゴミが捨てられたようになるのだ。
純粋な商業主義が、芸術に汚されることはあるかな。
歌と踊りの華麗な場面が、「なんのためにあるの?」と、
変な意味をつけられることだろうか。
いいじゃん、おもしろ場面なんだから水を差すなよ、ってなると思う。
実の所、芸能事務所は、商業主義の権化だ。
芸達者な人たちを集めた集団だから、商業主義をやりたがる。
ただし、映画は大衆芸術でもあると理解していて、
商業主義と芸術主義のバランスを見ていると思う。
単なるしょうもない台本じゃやらないし、
商業主義のかけらもない台本でもやらない。
だから、どれだけ色気を出しながら、芸術まで到達できるか、
というのが、
対事務所に対する台本の在り方だと思っている。
さて、対観客はどうだろう?
「私を理解(わか)ってくれ」というストーリーはつまらないと思う。
そんな作者の戯言はどうでもよいと思われる。
だからそんなものを書いてはいけない。
メアリースーはとくにそれを具体化したものだね。
だから、
作者がよいと思う世界や、ものや、人間を出せば、
それが間接的にあなたを分かってくれるものになる。
あなたはそういうのが好きなのね、ということだ。
世界はこうあるべき、こうであるべきではない、
などはそうした美学によってのみ整えられる。
それと、娯楽のバランスを取れ、ということだ。
娯楽に徹してもあとに何も残らない。
芸術に徹してもしょうもない戯言。
人を娯楽でひきつけ、
人を芸術で満足させろ。
それが脚本のやるべきことだと思う。
2025年08月14日
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