2025年08月14日

私を理解してほしい

すべての芸術の源はこれかもしれないと思っている。

「作者の言いたいこと」とかいうやつは、
芸術をつくったことのないやつだと思う。
作者の言いたいことなんてたった一つだ。
私を理解してくれ、だと思うよ。


あとは、その芸術の中に入れこまれているモチーフを、
「俺はこれが好き」といっている程度だろう。
〇〇は〇〇で〇〇なのだ、なんて高尚なテーマが隠されている、
なんてのは芸術にテーマが存在しなければならない、
と思い込む教条主義者なんじゃないか。

そんなものないのだ。
ある場合もあるけど、必ずしも、というわけではない。
実際に、奥底に潜むのは、
私を理解してほしい、なんじゃないかと思うよ。

自分の良いと思うものが、良いように描かれているわけだし、
私はこれを良いと思う人間です、
という告白だと思うと、
芸術は理解できる。
(だから芸術はAIのものではない。
すべてのディテールを、その美意識がコントロールしていなければならない)


さて。

映画は純粋芸術ではない。
だけど、芸術的な側面がないと物足りなくなる。
その「芸術的な側面」といっても、
訳の分からない理論でけむに巻かれるだけなので、
僕は、その面を「私はこれを良いと思う」という感覚だととらえるとよいと思う。

それは、ユートピアや輝くようなものから、
暗くじめじめしたものまで、さまざまにあってよいと思う。
人間は明るいだけでなく暗い面も持っているから、
芸術にその優劣はない。
あるとしたら、出来がよいか悪いかという問題だけだ。
陳腐だったり、その他の芸術に負けるほどの技術ならば、
その芸術はしょうもないというだけだ。

世界はこうあるべきだ、という考え方だったり、世界観だったり、
人間はこうあるべきだ、こういうものがいいよね、だったり、
テーマがこれがよい、と思うものであったり。
どのように表現されていてもいいが、
そういう強い何かに貫かれているのが、
よくできた芸術というものである。


で。

映画は純粋芸術ではない。
大衆娯楽の側面ももつ。
このときに、
「余計な芸術意識は邪魔」というときだってあるわけだ。
今爆笑したいときに、芸術はどうでもいい、
ということだってある。
逆に、単なる爆笑やコントに飽きてきたときに、
芸術を見ることはとても刺激になるわけだ。

実のところ、大衆芸術とは、
純粋な芸術と、純粋な娯楽を、
手を変え品を変えて、うまく融合させたものである、
と考えるとわかりやすくなる。

単純な二項対立だと、
映画は芸術である、文学である、第七芸術である、なんてものと、
映画は金もうけである、スターのものである、客を呼んでなんぼである、なんてのが、
対立するように思えるが、
そんな両極端は、どっちもつまらん、というのが僕の考えかな。

芸術だけだとしみったれてて、全然楽しみがない。
娯楽だけだと楽しいけど浅い。
楽しみがあり、深いものを、
みんな求めているはずだ。


そこを理解しない人たちが、
やれマーケティングだっていって、
表面的な娯楽要素を分解して、
〇〇が足りているとか〇〇が入っていないとか言ってるのは、
ちゃんちゃらおかしい。
映画を分かっていない証拠じゃないか。

逆に、えらい人が、
これは芸術であり、崇高な〇〇が表現されていて、
なんていうのも同じくらいちゃんちゃらである。
そんな分りにくいものを映画は欲しない。

もっと単純な、「人間ってこうだよね」「こういうものを私は良いと思う」
という根源的なものだったりするのだ。
そこには、私を理解して、があると思うと、簡単だ。
きみはこれがよいと思うのだな、ということだからだ。


芸術主義的につくられたものが、
商業主義で汚されることはよくある。
それは、すべてのディテールが一つの美意識で貫かれているものに、
余計なノイズが入って台無しになるからだ。
シミ一つない白い砂浜にゴミが捨てられたようになるのだ。

純粋な商業主義が、芸術に汚されることはあるかな。
歌と踊りの華麗な場面が、「なんのためにあるの?」と、
変な意味をつけられることだろうか。
いいじゃん、おもしろ場面なんだから水を差すなよ、ってなると思う。


実の所、芸能事務所は、商業主義の権化だ。
芸達者な人たちを集めた集団だから、商業主義をやりたがる。
ただし、映画は大衆芸術でもあると理解していて、
商業主義と芸術主義のバランスを見ていると思う。

単なるしょうもない台本じゃやらないし、
商業主義のかけらもない台本でもやらない。
だから、どれだけ色気を出しながら、芸術まで到達できるか、
というのが、
対事務所に対する台本の在り方だと思っている。


さて、対観客はどうだろう?
「私を理解(わか)ってくれ」というストーリーはつまらないと思う。
そんな作者の戯言はどうでもよいと思われる。
だからそんなものを書いてはいけない。
メアリースーはとくにそれを具体化したものだね。

だから、
作者がよいと思う世界や、ものや、人間を出せば、
それが間接的にあなたを分かってくれるものになる。
あなたはそういうのが好きなのね、ということだ。
世界はこうあるべき、こうであるべきではない、
などはそうした美学によってのみ整えられる。

それと、娯楽のバランスを取れ、ということだ。

娯楽に徹してもあとに何も残らない。
芸術に徹してもしょうもない戯言。

人を娯楽でひきつけ、
人を芸術で満足させろ。

それが脚本のやるべきことだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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