2025年08月12日

日本映画の嫌いなところ(「国宝」評3)

カットバックをしないところ。

以下ネタバレで。


あるシーンを撮るとする。
Aというアングルを撮る。
Bに寄る。
そしたらAに戻ってこないんよ。
Bの寄りでおしまい。
あるいは、新しいCで終わる。

これは、
シングルキャメラによるカット割り技法で、
芝居の順撮りに適した方法論だ。

シーンが寄りで終わるなら、
その人の感情が大事。(感情の転換)
シーンが引きで終わるなら、
その時の状況が大事。(状況の転換)

これ、実は「行動」を撮るのに向いてないのね。

劇中、吉沢亮は、
「状況に流されていた」だけで、
実のところ自分で起こした行動はひとつもない。

神頼み(悪魔との取引)と、
プロポーズくらいじゃないかな。

神頼みは誰でもやるとして、
つまり自分で起こした行動で、
成功したものが一つもないのだ。

あ、中坊の頃の敵討ちもあるか。
これも失敗してる。

彼の人生はすべて、守られた人生だ。
渡辺謙に。
田中泯に。
女たちに。
なぜ彼に女形の才能があったかは劇中で描かれていない。
たまたまでしかない。

なぜ、どういう才能があって、
それがどう磨かれ、どう腐り、
どう昇華したかは、
我々にはよくわからない。
結果としての舞台芸として示されていて、
プロセスが示されていない。

あしたのジョーですら、
ジャブの練習から入る。
なのに、試合でたまたま勝った負けたを繰り返してるだけに見える。

それはつまり、
偶然に流されているようにしか見えないのだ。


唯一あるのが曾根崎心中の、
「死ぬる覚悟」のエピソード。
「お前は誰となら死ねるか」と問われて、
横浜流星の存在に気づく、
という話でもなかった。
たまたまその女の気持ちがわかった、
に過ぎない。
なんでかはしらん。

だから、
ずっと吉沢亮が、流されているだけに見える。
大河ドラマというか、
人生というのは大きな荒波に流されて、
ついにどこかにたどり着くことだ、
みたいなこととしては良いかもしれないが、
何もせずに小舟が舞い踊っているようにしか見えない。

これが、
シングルキャメラのカット割りと相性がいい。

寄りで終われば運命を受け入れる表情、
引きで終われば事態が変わり、次の運命に移行、
となるからだ。

その運命に抵抗して、
何かを変えようという行動を描くのに、
向いてないカット割りなのよ。


カットバック、つまりその状況に置かれた2人を、
交互に写す方法論は、対立を示す。
対立という圧があるからこそ、
それを跳ね除ける行動を描くことができる。

それを選択しなかったのは、
物語自体が、「流されている」からであった。


こうなると、
セリフが極端に少なくなる。
東北の人のように。
過酷な自然環境に黙って耐えて、
春を待つ人のようになる。

長崎出身とはいえ、
吉沢亮は関西人として育ったはず。
じゃあ軽口としての冗談以外に、
なぜべらべらしゃべらない?

渡辺謙もまじめすぎる。
あんな関西人おらんやろ。
オール巨人くらいや。

みんな言葉の回転数が少なすぎる。

いや、東北の話、関東の話ならば、
それもわかる。
静かに状況を待ち、寡黙で、無言で実行の美学がある、
東の話ならばそれもわかる。

西の話でも、寡黙なやつが1人いて、
周りは全部べらべら喋る野郎ばかり、
というのはある。
だけど全員寡黙ってどういうこと。


省略がとても多い。
セリフは多くを語らず最小限のみで、
あとは察してくれ、という形式であった。

これが高倉健とか東北の話ならわかるけど、
ことは関西の話や。
京都の嫌味もなければ、大阪の対京都へのなんか嫌がる感じもない。
ネイティブが描いてないからしょうがないけれど、
「状況に流されて無言を貫き、
春を待つ人々」
にしか見えなかったのね。

それは人生かもしれないが、
映画かな?



50年を描くから、
各時代のオイシイエピソードをつまむしかない。
だけどその一気通貫してるものはなに?
何かを変えてやろうという信念ではなく、
籠の中の鳥が、
綺麗な景色を探してるだけだったのでは?



各エピソードの連関性が薄い。

はじめて渡辺謙につけられた肩甲骨に筆で書かれたやつ、
あとのどこにも出てこない。
親の仇のヤクザは二度と出てこない。
「芸で敵をとれ、約束やで」と言われたことは、
結実したのかなんともいえない。

嶋田久作の部下のやつとの関係性も、
はじめは突っかかってたのにあとは良好な関係になっただけ。

田中泯に言われた、
「顔が良すぎるからそこに溺れる」も、
何に関係してるのかわからない。

全体にうっすら関係してるような雰囲気を、
省略技法でごまかしてる感覚すらする。


ホモセクシャリティ、ないしBLの関係性かな?
中学時代に桜並木を二人乗りするのが、
どうにも気持ち悪い。
そこに至るまでのわだかまりがあるやろ普通。

なんであんなヤクザの子ウチに入れたんやと、
ボンボンなら反発していじめるやろ。
縄張りに入ってきた余所者をなぜ排除せずに、
二人乗りするのか、
全然わからない。
それを「友情」といえるのだろうか?
男同士なら、それが子供でも、
まず威嚇して、認め会える資格があるかどうか試すはずで、
そこが2人のファーストエピソードになるべき。

それがあまりにも何もないので、
ただの夢想にしか見えない。

女形に勃起するとかないのかな?
中学生やぞ?毎日勃起してしょうがない時期やぞ?


「芸に取り憑かれる」なんてよくいう。
その芸とは何かが、まったく描かれていないので、
ようわからんままや。
結果としての舞台は描かれるだけで。

かつて「フラガール」では、
フラダンスは手話なんだ、と解説があった。
だからラストの手に意味があった。

二人道成寺でも鷺娘でも、
とくに意味がないのが、
「何を見ていいのかわからない」んよね。
曾根崎心中の足の壊疽はうまいと思ったけど、
「死ぬる覚悟」は、
一体誰と死ぬる覚悟だったのか、
重ね合わせようがない。


これを見ると、
いかに「ガラスの仮面」が、
よく出来ているかわかる。
劇中劇をきちんとつくりあげて、
今役者が何を考えてこの役を演じているのか、
誰にもわかりやすくしようとしている。

それが皆が知ってる前提になると知識の差が出るから、
初出のオリジナル演劇でやる、
という構成がおそろしいくらいだ。
本編、劇中劇、そのシンクロと、
3倍の労力がかかるからね。

なぜマヤが恐ろしい子なのか、
演じることの凄味や恐ろしさを、
ガラスの仮面のほうが伝わってくる時点で、
この映画の「芸への思い」が、
まるでわからんのよ。

曾根崎心中をやろうとした、横浜流星の気持ちはわかる。
それに答えようと相手役を買って出た気持ちもわかる。
だけど吉沢亮は、状況に反応していただけ。
何か自分から仕掛けたわけではない。


状況に流される、
という物語作法は、
日本の物語の基本になってる部分がある。
それを「侍タイムトリッパー」でも議論した。

自然環境ならわかる。
でもそれが、梨園という「人間関係」なんだから、
それは崩せるやろと思ってしまうんよね。
そしたら、結局渡辺謙と田中泯に庇護されていただけという。

そうだな、
父殺しがなかったな。
だからずっと変だったのかもしれない。
義母である寺島しのぶから拒否されて、
おんな性を森七菜に求めた?のはわからいではないが、
吉沢亮は、父殺しをしてないんだよな。

渡辺謙も、永瀬正敏も、田中泯も、
そして横浜流星も、殺してない。
悪魔に魂を売った割に、
屋上でウイスキーのんで踊ってただけ。

ただ残されただけ。
残された籠の中の鳥が、
最後にきれいやなあと言っただけ。

状況に反応しかしてない、
流されている者の、
対立がないシングルキャメラ。


なんか日本映画のダメなところを煮詰めただけに見える。



これらの技法は、使いどころを間違えなければ、
とても良い効果をもたらす、
日本人の発明だと思う。

だけど李相日は、
これらの真髄を理解せず、
話を誤魔化して盛るためだけに使っているように見えた。

フラガールのラストは、
蒼井優がただ踊ってるだけでかわいかったので許す。
汗まみれの蒼井優を抱きしめてベッドに押し倒したくなった。
でも僕はホモではないので、
吉沢亮が踊ってるだけではときめかない。


たとえば「女形は誰かを好きになったら女になれる」
と前ふればいいだけだと思う。
「男やけどその時だけは女やねん。変やろ」でいいと思う。
で、誰を思ってその芝居をしてんの?
と聞かれて、
答えを省略するだけでいいはず。




原作は読んでないので、
映画だけの感想だ。
もし原作の方がよいのなら、
映画の出来は悪いということになるね。

久しぶりに「本気で作った」日本映画を見て、
目と耳は満足した。
連日満席、リピーターがいるのもよくわかる。
眼福を皆見に来るのだろう。

だけど心は一向に満足しない。
きれいなやあ、でごまかすなや。

で?ってずっと思っている。




(追記)
屋上で狂ったように踊るシーンの、
「どこみてんの?」「どこやろなあ」は、
アドリブなんですって。
おそらくこの映画を見た人は、
みんなあのシーンが美しいと思うと思うんだけど、
アドリブなんかい。
それを作れない、脚本と演出の力の弱さよ。

たとえば「ブレードランナー」の、
ルトガーハウアーのラストのアドリブで、
完全にハリソンフォードは食われた。
映画の質が変わってしまったのだ。
だがそもそもの脚本計画が陳腐だったものが、
そのアドリブで一流の仲間入りをしたわけ。

この「どこやろなあ」のアドリブは、
風穴はあけたものの、
結論に至ってないアドリブだ。
だからアドリブするだけ無駄だったんだよね。
(吉沢亮イイ、には寄与しているが、
それがあってからの「きれいやなあ」には、
結実していない)
posted by おおおかとしひこ at 07:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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