2025年08月12日

良くも悪くも「見得」で理解できる(「国宝」評4)

邦画は直接には歌舞伎の直系(分派?真似?)である。
その悪い部分に、見得を切る感覚があるのでは、
とふと思った。


僕は物語は線であり、点ではないと常に言っている。

点の集合が線になるのではない。
それはバラバラなのが繋がってない、
繋ぎのないハンバーグのようなものだ。
全体としては一つにまとまらず、
ぽろぽろと分解してしまうだろう。

たとえばスプレッド
(あることに関して描写を並べるだけで、
そこに時間軸展開がない)のは、
この点の集合に過ぎず、線ではないとよくいう。

アカレンジャー!
アオレンジャー!
キレンジャー!
モモレンジャー!
ミドレンジャー!
はスプレッドであり、
それをやっている間は時間軸が進行しない。
「5人揃ってゴレンジャー!」
でまとまって初めて時間軸を持つが、
単なる自己紹介なので、
時間軸が進んだわけではない。

この極端なやつが、
「We are little zombies」といううんこ映画で見ることができる。
メンバーの過去紹介パートがこれだ。
関係性が進まないまま、延々自己紹介している。
体感30分くらい話が進まなかった。

人が点の集合に耐えられるのは、
そうだな、1分くらいじゃない?
ミュージックビデオってそれくらいまでしか持たないよね。
メンバー紹介で終わっちゃうからね。
ファンは最後まで見るけど、
映画はファン前提で見るものではない。
むしろ、
知らない人をファンにさせる(感情移入によって)、
というメディアだ。



さて、
この自己紹介とは、「見得を切る」やり方である。
アカレンジャー!とポーズを取るわけだ。

この見得を切る文化はアメリカにはないんだって。
だからヒーローは名乗らないし、
崖の上から現れないそうだ。
ハリウッド版「トランスフォーマー」で、
変身したあとに一瞬タメてポーズを取るんだけど、
このパートを日本人CGアーティストが担当したから、
これをやったのであって、
普通しないんだって。

そういえばアイアンマンの変身シーンは、
毎回タメも見得もなくスムーズにいくだけだ。
「天が呼ぶ地が呼ぶ武器が呼ぶ、我が名は鋼鉄の使者、
アイアンマン!」なんてのもないね。
これはあくまで点に過ぎず、線とは関係ないからだ。

だけど、流れてゆく時間だからこそ、
一瞬止めてでも永遠に見ていたいものだ。
その日本人の気持ちを汲み取ったのが、
見得という文化ではないかと思う。

日本のアニメや特撮に、
変身シーンや名乗りシーンが多いのは、
この見得の文化と、バンクで使いまわせるから、
という予算の都合の融合でもある。


さて、日本映画である。

「この色んな激動の時代を生きてきた、
その上でのこの顔の表情」
なんて言ったりする。
「この気持ちを、目線一つで表現した」
なんて言い方もする。

これは点だ。もうちょっというと、見得だと思うわけ。
つまり、顔芸なんだよ。

僕はこの顔芸が嫌いなんだよね。

根拠はモンタージュ理論だ。
文脈さえあれば、
無表情を繋いだってそういう気持ちになるのだ。
なぜなら我々はストーリーをその人の顔に、
投影しているからである。
つまりは能だ。仮面なのに表情を見出すのは、
ストーリーを見ている我々なのだ。

だから、
どんな顔をしようがそのように見えるはず。

その顔の表現力は認めるけれど、
ぶっちゃけ何が来ても同じ感動はあるよ。


で、
どうも日本映画ってその顔芸をありがたがる傾向にあると思う。
あの表情が、とか、顔が、とか、目が、とか。
いや、それはモンタージュ理論やで、
といっても知らない人は顔しか見てないからね。

それは作り手がわかってればいいことなのかもしれないが、
プロデューサーとかが顔が、
とか言い出すのは流石にわかってないと思うんだよな。

役者が顔芸に命をかけるのはわかるよ。
一世一代の見せ場だからね。
でも、それとストーリーは関係なくないか。


逆に言うと、
ストーリーの甘さを、
見得という顔芸で誤魔化してるところが、
ダメな日本映画にありがちじゃね?ってこと。

つまり、

状況に流された→それに耐えてる顔、耐え切れぬ顔、
 抗おうとしてる顔
良い状況になった→嬉しい顔、なんともいえぬ顔

だけやってて、
実のところコイツなんもしてなくね?
ってなりがちなんだよね。


国宝の吉沢亮は、役者としての仕事は全うしてるかもしれないが、
それ以外の人生で何をやろうとした?
3時間もあって、
親の仇で脇差持って殴り込んだのと、
プロポーズしかしてなくないか。
あとは状況に流されてる、顔芸ばかりだったような気がする。

その顔を美しいと思う女子は、
はあああとなるかもしれないが、
僕は男の顔に恋することはないので、
何コイツ、顔芸だけ?って思ってしまうのよね。

何を言うかより何をするかで人の価値は決まる。
それが映画的物語である。
吉沢亮は、籠の中で何もしなかった観賞用鳥だ。

そのリアクション顔だけ撮ってた映画だと思う。

つまり、見得を、間違って使ってたんじゃね?


田中泯のシワだらけの顔は、
長年生きてきた説得力があって、
とても良かった。
だけどそれは単なる顔芸であり、
彼の演じる役とは関係のない部分だ。
彼の行動は、美しさと関係ない世界に住むことを決めただけだね。
だから、顔芸のシワに比べて小さな役だった。

なのに、顔をアップにしすぎて、
我々が勝手に想像するようにしむけられている。
これは間違った能面の使い方よね。


(悪い)日本映画は顔芸や叫び芸に頼りすぎて、
スジを見失ってるのでは?
posted by おおおかとしひこ at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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