2人の男が、演劇という魔物の上で対決、
ないし数奇な運命を辿る。
ライバル心があり、ひかれ合う。
同じ才能を持つが故の、もう一人の真の理解をする。
僕はそれに初めて出会ったのは「ガラスの仮面」(原作)だけど、
この三つの映画は、それと同じジャンルだと思う。
だが、出来に差がある。
当然ネタバレに触れるので、
3本見てからにしてね。
3本のうち、
最も出来がよいのは「アマデウス」だ。
なぜなら、
主人公サリエリの「物語」にきちんとなっているからだ。
映画的物語は、行動によって描かれる。
絵というのは変化しなければ現状維持にすぎず、
主体的に絵を変化させることこそ、
行動になるからである。
アマデウスのサリエリは、
一貫した行動をとっている。
嫉妬である。
自分の何をも引き換えにして神に願った「才能」が、
モーツァルトにあり、
自分にはないことを、彼と出会って知ってしまうのだ。
彼の妻を仕事と引き換えに抱こうとしたり
(お気に入りの女優が女癖の悪いモーツァルトに、
盗まれたことへの意趣返しである)、
彼の仕事を奪ったり、
彼が苦しむようにしむけ、
彼が怯える黒仮面をまとい、
彼自身のレクイエムの作曲依頼をする。
彼だけがモーツァルトの才能を理解しているので、
観客が入らない舞台でも、
サリエリは全部見ている。
モーツァルトの才能の最大の理解者であるゆえの、
この矛盾した行動が、
サリエリの凡人としての最大のおもしろさだ。
だからこそ、
モーツァルトの才能を最大に理解してるゆえに、
モーツァルトが最後に作曲する時に、
積極的に採譜を手伝い、
彼の音楽の誕生の瞬間の助産婦になるのだ。
彼が死んだ後、彼の才能を語る狂った老人になるラストも含めて、
「全て一貫した感情と行動」をもっていることが、
「アマデウス」という映画の、
もっとも評価されるところだ。
全ては彼の中の行動として首尾一貫していて、
すべてがこれに紐づいている。
これに比べて、
「覇王別姫」は、前半戦、
結婚式くらいまでは傑作なのだが、
後半戦ぐだっておしまいだと思う。
劇団の修行時代は子供だから、
行動を制限され、その中で花開くBL的思いをうまく描けている。
成人してから結婚式あたりまでは、
自由に行動できたから、話が動いた。
しかし後半、日本軍→共産党という、
劇団の師匠より強力な行動制限がついたため、
自由な行動を奪われて、
再び状況に流されるままになってしまい、
炎を挟んだ自己批判シーンでしか本音を吐露できず、
行動は矮小化して、自殺くらいしかすることがなくなってしまい、
十分行動した映画だったとはいえない。
むしろ、反共産党として伝統の京劇をやり、
当局から逃亡し続ける話になったほうが、
「行動」を描けておもしろくなったのに。
それを阿片に逃避してしまったことで、
映画の行動性が削がれてつまらなくなってしまった。
脚本を書く時の典型的な、
「バックストーリーが面白くなってしまい、
現在がつまらなくなる」のパターンだ。
バックストーリーとは成人前の修行時代、
現在とは結婚してから、であろう。
「国宝」は、さらに行動が少ない。
状況に流されていて、
人生のターニングポイントは、
すべて他人が決めている。
父を殺され、渡辺謙の家に入ったこと。
息子よりも芸を評価され、単独主演になったこと。
襲名したこと。
息子が帰ってきたこと。
田中泯に呼ばれたこと。
半半コンビで復活したが、彼は糖尿病で死んだこと。
残って淡々とやってたら、人間国宝として認められたこと。
自らが行動したことは、
中坊のときに父の仇をうちにいったこと(失敗)、
プロポーズしたこと(失敗)、
歌舞伎役者の娘に手を出したこと(政治的失敗)、
くらいのものだ。
彼は一度も自ら成功の女神を手繰り寄せていない。
だから、覇王別姫よりも行動が少なく、
ただ状況に流されているだけに見える。
物語としての完成度は、
だから「アマデウス」が群を抜く。
「覇王別姫」は半ばの出来で、
「国宝」は、ほとんど何もしてない物語である。
数字で言えば、100、50、2くらいの、
物語の出来である。
ストーリーとは何か。
出来事がただやってくることではない。
それは日記という。
覇王別姫の後半がつまらないのは、
日本軍がやってきて、共産党がやってきて、
個人じゃどうしようもないからだ。
それは不幸な状況日記を描いてるに過ぎない。
問題は、「その不幸を個人がどう突破したか(行動)」
なのだ。
「国宝」では、ほとんど行動がなく、
禍福相半ばする人生の波の上で、
漕ぎ手のない船がゆらゆらしていただけだ。
悪魔と契約した、というほど悪魔的な行動もしてないし。
だから、
脚本的としては、国宝はうんこ級の出来である。
日記的にはドラマチックですね、だけどね。
覇王別姫は半分の出来、
アマデウス(ディレクターズカット版)は完全なる出来だ。
どの3本とも、伝統芸能の舞台が素晴らしくよく撮影されている。
オペラ、京劇、歌舞伎。
その舞台の迫力にごまかされて、
物語としての本質を、
覇王別姫も国宝も見失っている。
似た構造に、「ボヘミアンラプソディ」という、
フレディマーキュリーの伝記があった。
これも、歌唱シーンは完璧だけど、
彼の人生という物語としては、
甘々な作品であったと言える。
まあ事実ベースだから、余計な脚色ができないのはわかる。
しかしこれがフィクションだとしたら、
ストーリーパートヌルいよ、
といわれて当然の出来だ。
僕は「国宝」をすごいといってる人は、
「ボヘミアンラプソディ」をすごいということと、
同じことを言ってるだけだと思う。
なので、ストーリーという意味では、
覇王別姫が何倍も出来が良いし、
アマデウスはその何倍も出来が良い。
歌舞伎にカメラが入った、
という歴史的意義はあるかもしれない。
だけど、
まだ傾いたハワイアンセンターを立て直す、
フラガールのほうがストーリーが出来てたぜ。
2025年08月16日
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