2025年09月06日

何を褒めているのか(「国宝」評7)

「国宝」のヒットが解せぬ、
という話を1時間ほど某Pと語った。
歌舞伎シーンはよく出来ているが、
歌舞伎シーンを全カットしたら、
たいして面白い話でもないし、
よくできてない話じゃんね、
というところまでは共通点。

じゃあ歌舞伎シーンがいいからいい、
という短絡なのか?
という話。

以下ネタバレありです。


分かりやすい例を考える。

「ロッキー」からボクシングシーンを除いたら?

それでもエイドリアンとのラブストーリー、
散々な扱いを受けて、
俺には全盛期はなかったというシーンは残る。

つまりロッキーは、
何者でもなかった男が、
ついに何者かになる話だ。
勝てなかったとしても、最後に立っていることが俺の勝利だとして、
最後まで立ち続け、ロッキーコールを得て、
最後にエイドリアーンと自分のアイデンティティを叫ぶ。

試合はもちろん興奮する出来である必要があるが、
「ロッキー」においてそこは本質ではない。
ロートルがチャンスを得て、
それを掴む様に我々は興奮するのである。

つまり、
ロッキーは何者かになるストーリーたる本質ができていて、
ボクシングはあくまでガワである。


真逆を考える。
AVだ。

インタビュー→カラミ→インタビュー→カラミ
→インタビュー→カラミ

という構成だとしよう。

我々はAVのカラミを見るために見る。
インタビューはぶっちゃけ嘘だろうし、
ストーリーものだとしてもお飾りなので、
まあ飛ばす。
もちろん本気で見ることはない。
メインデイッシュの箸休めみたいなものだ。

仮にAVからインタビューやストーリー部分を取ったら?
別に構わんよ。
カラミだけ繋げよ。


「国宝」をいい、と言ってる人は、
ストーリーを褒めていない。
歌舞伎を褒めている。

これはつまり、
インタビューは飛ばして、
カラミだけAVを見る人と同じでは?

「ウルトラファイト」という、
ウルトラマンの怪獣バトルシーンだけ再編集した番組があった。
「国宝」の歌舞伎シーン集
(練習シーン、舞台裏シーン含む)
という映画があったら、
みんな見るのかな?



宣伝広告は、一貫して、
吉沢亮や横浜流星が、
一年歌舞伎を稽古して、
本物の歌舞伎役者に近づいたことを褒める。

たとえばこれ。
https://www.advertimes.com/20250905/article510814/

もちろん、ストーリー的なネタバレを避けるための、
戦略的なやり方である可能性はある。

俊坊(横浜流星)が糖尿病になり、
足を失う前に曾根崎心中をやりたい、
はドラマティックだから、
そこをネタバレしない方がいいとは思う。
(ここは最も良くできてた、
舞台とストーリーの絡みである)

「いやー、ヤクザの息子が歌舞伎役者になる、
なんて設定が松竹に断られましてねー」
なんてのも語りづらい。
「松竹制作だったら、
舞台の上にカメラ上げられませんよ。しきたりあるし」
なんてのも語りづらい。

僕は歌舞伎の母体である松竹でなぜ作らなかったのかが疑問だ。
たぶん上のような理由だろうと推測してるのだが、
違ったらごめんなさい。

「ヤクザという出自に主人公は悩むんです。
芸でのし上がりたいのに血が大事だと。
だから彼は一計を案じて、
血を追いやる方法を思いついたんですよ……」
などと、ストーリーを解説する宣伝でもない。
そんな話でもないからだ。


だからか、
徹底的に「主演の歌舞伎練習がすごい押しでいく」
と決めてかかっている節がある。

件のインタビューだと、
スジはすごくなくて、
役者がすごかったからヒットした、
と言っているようなものだ。

つまりこれって、
「AVのカラミがすごかった。
ストーリーはどうでもいい。
女優はこのカラミのためにセックスを1年我慢したのだ」
みたいなドキュメント性を見ていることになる。

「こいつらはラーメンを食ってない。
情報を食ってる」と、
ラーメンハゲは批判した。

歌舞伎なんてわからん人が、
すごい、すごい、歌舞伎みたいといってるさまは、
つまりドキュメントを見に来ている。


AKBのドキュメントを僕は見たことがないが、
ステージ裏には一定の需要があるのはわかる。

AVでいえばカラミに対して、
「○○な気持ちで臨みます」とか、
「撮影でしかセックスできないので」とか、
「めっちゃ気持ち良かった」という情報は、
カラミに対する情報になり、
我々をさらに興奮させる。
それと同じなのでは?

いみじくも、
「ボヘミアン・ラプソディ」があげられていた。
あれも、
歌唱シーンは完璧で、
ストーリーはかなり適当だった。

「ボヘミアン・ラプソディ」から歌シーンを全部抜いた、
AVのインタビュー集と同じものを見たら、
つまらないと思う。


「トップガン」から戦闘機シーンを抜いたら?
「F1(見てないが)」からレースシーンを抜いたら?
「マトリックス」からバトルを抜いたら?
アクション映画からアクションを抜いたら?

何が残る?
それがストーリーである。

AVのインタビューにストーリー性などほとんどない。
カラミを見るためだけのものだからだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」にストーリー性はほとんどない。
再現ドラマであり、
歌シーンを見るためだけにあるからだ。

「国宝」に、ストーリー性はほとんどない。
歌舞伎シーンを見るためだけにあるからだ。

と、三段論法になるかな?


流石にそこまでではないかもしれないが、
ヤクザの子供という呪われた出自に苦悩する、
に我々は感情移入してないし、
血にどうしても勝てない苦しみにも感情移入してないし、
悪魔にお願いすることにも感情移入してないし、
唐突なセックス後のプロポーズにも感情移入してないし、
プロポーズを断られる感情にも感情移入してない。

ラストの鷺娘で「きれいやなあ」というセリフに、
彼の人生の万感がこもってるわ、
とも思えない。

キクちゃん(吉沢亮)は流された人生を歩んでる、
人形みたいな人生で、
自分から人生を切り開いてないでくの坊である。
その人形が意志を持って反抗した、
という話でもない。

彼の最もいいシーンは、
流浪の果て、しょうもない客に楽屋まで押しかけられて、
「俺は男や!」ってもめて、
屋上でウイスキーを飲んでフラフラと踊り、
「どこ見てるん?」と聞かれて、
「どこ見てるんやろうなあ」と、
自暴自棄になるところだ。

つまりこれが彼の人生を象徴している。
彼に自分の意思はない。
状況に流されているにすぎない。

だから、カラミを邪魔しないインタビューレベルなんだよ。

ボヘミアン・ラプソディで、
エイズにかかろうがレコード会社と喧嘩しようが、
まあどうでもいいのと同じである。

フレディ・マーキュリーも流されている。
キクちゃんも流されている。
AV女優も撮影で流されている。


一方、
ロッキーは自ら人生を切り開く。
エイドリアンを口説き、ミッキーを口説き、
テレビのインタビューで恥をかき、
試合に勝とうとする。

「さらば我が愛/覇王別姫」の蝶衣は、
劇団から逃げ出し、京劇に感動して戻り、
彼の相手役という座に収まり、
彼の結婚に嫉妬してホモに抱かれ、
最後は彼に殺されるラストを選ぶ。

「アマデウス(ディレクターズカット版)」のサリエリは、
モーツァルトに嫉妬し、
新婚の妻を抱こうとしてそれ以上の屈辱を負わせ、
モーツァルトの舞台を早く終わらせるようにして、
レクイエムの作曲を黒衣の男として依頼して追い込み、
しかし最後に彼に協力する。

この、流される人生に逆らう苦闘こそが、
ストーリーであると僕は考える。



「国宝」にはストーリーがなく、
ただ流れる時間軸があるのみだ。
だから「ボヘミアン・ラプソディ」の人生シーンや、
AVのインタビューと同じ、
どうでもいいシーンなのだ。

そして、
カラミや、歌唱シーンや、歌舞伎シーンが、
絶賛されているにすぎない。

もちろん、吉沢亮の1年の稽古に、
密着ドキュメントカメラ、
ついてたんだろうな?
そっちの出来がよかったら、
そっちのほうが売れるのではないか?

キクちゃんの渾身の芝居に我々が夢中になるのではなく、
吉沢亮の美しさや訓練の成果に我々が夢中になってるのならば、
愛や恋の結果セックスしている役としてのAV女優ではなく、
ただ綺麗な女がセックスしてるのを眺めることと、
何が違うというのだろう?


僕がとても気になったのは、
あの各演目、頭から尻まで全部演じて撮影したんだって。
それでいいところをつまんで編集したのだそうだ。
え、演目いうても小一時間とか2時間とかあるんでしょ。
それを2〜3分や10分くらいにつまんで、
ほかを全部捨てたって?
計画性なさすぎじゃない?

音楽のMVかよ。
あれはマルチカメラで何回か歌って、
いい所をつまんで編集するのね。
パフォーマンスの良かったところだけを残すわけ。
それと一緒じゃん。
前後関係とかなくて差し込んだりする、
いわばランダム編集に近い。

「国宝」の歌舞伎シーン、単なるMVじゃんか。

そういえば、
あの演目たちのストーリーが、
全然頭に入ってこなかった。

二人道成寺の娘たちがどういう事情で、
あの鐘の中に入るのか、
全然わからんのよ。
「安寿と逗子王」の話なんだっけ?
それがどう二人娘になってるのか、
全然分からないのが気になった。

あるいは鷺娘もそうだし、
曾根崎心中もだ。

つまりあれは、
ストーリーに感情移入する演劇ではなくて、
ダンスの撮り方なんだよ。

ああ、「国宝」ね、いいダンスだった、
という感想で100億いったってことでいい?



キクちゃんの呪われた出自が、
人間国宝まで上り詰めた、
ざまあ格式、みたいなことがテーマなの?
そういうことにもなってなかったよね。
芸に魅入られて狂った男がまだ狂っている、
という話なのかしら?

その中心のなさが、
カラミダンスへと注目を集めるしかけになっている?




昨日話した人との会話では、
観客のレベルが落ちてるから、
あの程度の映画でもヒットするのでは、
とまで話していた。
うん、たぶんそうだ。
映画を見るには体力がいるし、
映画を見るには脳を使う必要がある。
「このストーリーはどういう意味なんだろう?」とかね。
そして、
「このストーリーには意味などない、
出来の悪いものである」と判断するのにも脳がいる。

残念ながら、その判断の前に、
カラミが良かったと、
動物的反応をしているだけなのだ。


めちゃくちゃ縮めて言うと、
オバサンたちが吉沢亮のダンスで濡れたから、
100億いった。

リアルでは求愛ダンスをされていない、
寂しいオバサンたちの購買力を舐めるな、
ということだろうか?
このオバサンたちの力で発電できねえかな。
某Jはしてたようなものだが。


もし日本のオッサンたちが、
ヨメの前でたどたどしい求愛ダンスを毎日踊ってれば、
100億行かなかった、と仮説を立ててみるか。

吉沢亮のダンスはキレイだったけど、
ウチの旦那の、私にしかしないしょうもなダンスの方が安心するわ、
ってなってたら、
ここまでヒットしなかった説。
posted by おおおかとしひこ at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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