「国宝」のヒットが解せぬ、
という話を1時間ほど某Pと語った。
歌舞伎シーンはよく出来ているが、
歌舞伎シーンを全カットしたら、
たいして面白い話でもないし、
よくできてない話じゃんね、
というところまでは共通点。
じゃあ歌舞伎シーンがいいからいい、
という短絡なのか?
という話。
以下ネタバレありです。
分かりやすい例を考える。
「ロッキー」からボクシングシーンを除いたら?
それでもエイドリアンとのラブストーリー、
散々な扱いを受けて、
俺には全盛期はなかったというシーンは残る。
つまりロッキーは、
何者でもなかった男が、
ついに何者かになる話だ。
勝てなかったとしても、最後に立っていることが俺の勝利だとして、
最後まで立ち続け、ロッキーコールを得て、
最後にエイドリアーンと自分のアイデンティティを叫ぶ。
試合はもちろん興奮する出来である必要があるが、
「ロッキー」においてそこは本質ではない。
ロートルがチャンスを得て、
それを掴む様に我々は興奮するのである。
つまり、
ロッキーは何者かになるストーリーたる本質ができていて、
ボクシングはあくまでガワである。
真逆を考える。
AVだ。
インタビュー→カラミ→インタビュー→カラミ
→インタビュー→カラミ
という構成だとしよう。
我々はAVのカラミを見るために見る。
インタビューはぶっちゃけ嘘だろうし、
ストーリーものだとしてもお飾りなので、
まあ飛ばす。
もちろん本気で見ることはない。
メインデイッシュの箸休めみたいなものだ。
仮にAVからインタビューやストーリー部分を取ったら?
別に構わんよ。
カラミだけ繋げよ。
「国宝」をいい、と言ってる人は、
ストーリーを褒めていない。
歌舞伎を褒めている。
これはつまり、
インタビューは飛ばして、
カラミだけAVを見る人と同じでは?
「ウルトラファイト」という、
ウルトラマンの怪獣バトルシーンだけ再編集した番組があった。
「国宝」の歌舞伎シーン集
(練習シーン、舞台裏シーン含む)
という映画があったら、
みんな見るのかな?
宣伝広告は、一貫して、
吉沢亮や横浜流星が、
一年歌舞伎を稽古して、
本物の歌舞伎役者に近づいたことを褒める。
たとえばこれ。
https://www.advertimes.com/20250905/article510814/
もちろん、ストーリー的なネタバレを避けるための、
戦略的なやり方である可能性はある。
俊坊(横浜流星)が糖尿病になり、
足を失う前に曾根崎心中をやりたい、
はドラマティックだから、
そこをネタバレしない方がいいとは思う。
(ここは最も良くできてた、
舞台とストーリーの絡みである)
「いやー、ヤクザの息子が歌舞伎役者になる、
なんて設定が松竹に断られましてねー」
なんてのも語りづらい。
「松竹制作だったら、
舞台の上にカメラ上げられませんよ。しきたりあるし」
なんてのも語りづらい。
僕は歌舞伎の母体である松竹でなぜ作らなかったのかが疑問だ。
たぶん上のような理由だろうと推測してるのだが、
違ったらごめんなさい。
「ヤクザという出自に主人公は悩むんです。
芸でのし上がりたいのに血が大事だと。
だから彼は一計を案じて、
血を追いやる方法を思いついたんですよ……」
などと、ストーリーを解説する宣伝でもない。
そんな話でもないからだ。
だからか、
徹底的に「主演の歌舞伎練習がすごい押しでいく」
と決めてかかっている節がある。
件のインタビューだと、
スジはすごくなくて、
役者がすごかったからヒットした、
と言っているようなものだ。
つまりこれって、
「AVのカラミがすごかった。
ストーリーはどうでもいい。
女優はこのカラミのためにセックスを1年我慢したのだ」
みたいなドキュメント性を見ていることになる。
「こいつらはラーメンを食ってない。
情報を食ってる」と、
ラーメンハゲは批判した。
歌舞伎なんてわからん人が、
すごい、すごい、歌舞伎みたいといってるさまは、
つまりドキュメントを見に来ている。
AKBのドキュメントを僕は見たことがないが、
ステージ裏には一定の需要があるのはわかる。
AVでいえばカラミに対して、
「○○な気持ちで臨みます」とか、
「撮影でしかセックスできないので」とか、
「めっちゃ気持ち良かった」という情報は、
カラミに対する情報になり、
我々をさらに興奮させる。
それと同じなのでは?
いみじくも、
「ボヘミアン・ラプソディ」があげられていた。
あれも、
歌唱シーンは完璧で、
ストーリーはかなり適当だった。
「ボヘミアン・ラプソディ」から歌シーンを全部抜いた、
AVのインタビュー集と同じものを見たら、
つまらないと思う。
「トップガン」から戦闘機シーンを抜いたら?
「F1(見てないが)」からレースシーンを抜いたら?
「マトリックス」からバトルを抜いたら?
アクション映画からアクションを抜いたら?
何が残る?
それがストーリーである。
AVのインタビューにストーリー性などほとんどない。
カラミを見るためだけのものだからだ。
「ボヘミアン・ラプソディ」にストーリー性はほとんどない。
再現ドラマであり、
歌シーンを見るためだけにあるからだ。
「国宝」に、ストーリー性はほとんどない。
歌舞伎シーンを見るためだけにあるからだ。
と、三段論法になるかな?
流石にそこまでではないかもしれないが、
ヤクザの子供という呪われた出自に苦悩する、
に我々は感情移入してないし、
血にどうしても勝てない苦しみにも感情移入してないし、
悪魔にお願いすることにも感情移入してないし、
唐突なセックス後のプロポーズにも感情移入してないし、
プロポーズを断られる感情にも感情移入してない。
ラストの鷺娘で「きれいやなあ」というセリフに、
彼の人生の万感がこもってるわ、
とも思えない。
キクちゃん(吉沢亮)は流された人生を歩んでる、
人形みたいな人生で、
自分から人生を切り開いてないでくの坊である。
その人形が意志を持って反抗した、
という話でもない。
彼の最もいいシーンは、
流浪の果て、しょうもない客に楽屋まで押しかけられて、
「俺は男や!」ってもめて、
屋上でウイスキーを飲んでフラフラと踊り、
「どこ見てるん?」と聞かれて、
「どこ見てるんやろうなあ」と、
自暴自棄になるところだ。
つまりこれが彼の人生を象徴している。
彼に自分の意思はない。
状況に流されているにすぎない。
だから、カラミを邪魔しないインタビューレベルなんだよ。
ボヘミアン・ラプソディで、
エイズにかかろうがレコード会社と喧嘩しようが、
まあどうでもいいのと同じである。
フレディ・マーキュリーも流されている。
キクちゃんも流されている。
AV女優も撮影で流されている。
一方、
ロッキーは自ら人生を切り開く。
エイドリアンを口説き、ミッキーを口説き、
テレビのインタビューで恥をかき、
試合に勝とうとする。
「さらば我が愛/覇王別姫」の蝶衣は、
劇団から逃げ出し、京劇に感動して戻り、
彼の相手役という座に収まり、
彼の結婚に嫉妬してホモに抱かれ、
最後は彼に殺されるラストを選ぶ。
「アマデウス(ディレクターズカット版)」のサリエリは、
モーツァルトに嫉妬し、
新婚の妻を抱こうとしてそれ以上の屈辱を負わせ、
モーツァルトの舞台を早く終わらせるようにして、
レクイエムの作曲を黒衣の男として依頼して追い込み、
しかし最後に彼に協力する。
この、流される人生に逆らう苦闘こそが、
ストーリーであると僕は考える。
「国宝」にはストーリーがなく、
ただ流れる時間軸があるのみだ。
だから「ボヘミアン・ラプソディ」の人生シーンや、
AVのインタビューと同じ、
どうでもいいシーンなのだ。
そして、
カラミや、歌唱シーンや、歌舞伎シーンが、
絶賛されているにすぎない。
もちろん、吉沢亮の1年の稽古に、
密着ドキュメントカメラ、
ついてたんだろうな?
そっちの出来がよかったら、
そっちのほうが売れるのではないか?
キクちゃんの渾身の芝居に我々が夢中になるのではなく、
吉沢亮の美しさや訓練の成果に我々が夢中になってるのならば、
愛や恋の結果セックスしている役としてのAV女優ではなく、
ただ綺麗な女がセックスしてるのを眺めることと、
何が違うというのだろう?
僕がとても気になったのは、
あの各演目、頭から尻まで全部演じて撮影したんだって。
それでいいところをつまんで編集したのだそうだ。
え、演目いうても小一時間とか2時間とかあるんでしょ。
それを2〜3分や10分くらいにつまんで、
ほかを全部捨てたって?
計画性なさすぎじゃない?
音楽のMVかよ。
あれはマルチカメラで何回か歌って、
いい所をつまんで編集するのね。
パフォーマンスの良かったところだけを残すわけ。
それと一緒じゃん。
前後関係とかなくて差し込んだりする、
いわばランダム編集に近い。
「国宝」の歌舞伎シーン、単なるMVじゃんか。
そういえば、
あの演目たちのストーリーが、
全然頭に入ってこなかった。
二人道成寺の娘たちがどういう事情で、
あの鐘の中に入るのか、
全然わからんのよ。
「安寿と逗子王」の話なんだっけ?
それがどう二人娘になってるのか、
全然分からないのが気になった。
あるいは鷺娘もそうだし、
曾根崎心中もだ。
つまりあれは、
ストーリーに感情移入する演劇ではなくて、
ダンスの撮り方なんだよ。
ああ、「国宝」ね、いいダンスだった、
という感想で100億いったってことでいい?
キクちゃんの呪われた出自が、
人間国宝まで上り詰めた、
ざまあ格式、みたいなことがテーマなの?
そういうことにもなってなかったよね。
芸に魅入られて狂った男がまだ狂っている、
という話なのかしら?
その中心のなさが、
カラミダンスへと注目を集めるしかけになっている?
昨日話した人との会話では、
観客のレベルが落ちてるから、
あの程度の映画でもヒットするのでは、
とまで話していた。
うん、たぶんそうだ。
映画を見るには体力がいるし、
映画を見るには脳を使う必要がある。
「このストーリーはどういう意味なんだろう?」とかね。
そして、
「このストーリーには意味などない、
出来の悪いものである」と判断するのにも脳がいる。
残念ながら、その判断の前に、
カラミが良かったと、
動物的反応をしているだけなのだ。
めちゃくちゃ縮めて言うと、
オバサンたちが吉沢亮のダンスで濡れたから、
100億いった。
リアルでは求愛ダンスをされていない、
寂しいオバサンたちの購買力を舐めるな、
ということだろうか?
このオバサンたちの力で発電できねえかな。
某Jはしてたようなものだが。
もし日本のオッサンたちが、
ヨメの前でたどたどしい求愛ダンスを毎日踊ってれば、
100億行かなかった、と仮説を立ててみるか。
吉沢亮のダンスはキレイだったけど、
ウチの旦那の、私にしかしないしょうもなダンスの方が安心するわ、
ってなってたら、
ここまでヒットしなかった説。
2025年09月06日
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