人間とは、自分とは、世界とは。
哲学的なテーマを、自主映画ではとかくやりがちだ。
まあ、人間の関心がそこにあるからしょうがない。
けど、一人称形式の小説ならわかるが、
三人称形式の映画ではおそろしくつまらない。
だから、湿ったれた、ブンガクになってしまって、
誰も顧みなくなる。
僕は京都で自主映画をやっていた。
周りには「哲学的」なテーマをやりたがるやつらばかりだった。
それはダメだよ、映画ってもっと娯楽だろ、
という一派がうちのサークルで、
自主界では異色だったと思う。
「哲学的」な自己表現は所詮オナニーである。
いつも喧嘩をして、僕らは彼らを見下していた。
なぜなら、「哲学的」な映画はつまらないからだ。
正確にいうと、一人称のつぶやきばかりになって、
三人称のドラマにならないのである。
プロになって、
まだ自主映画的な、いわゆる日本映画が多いことに気づく。
予算がないから、
派手な仕掛けができず、
半径2メートルならば撮影が出来るから、
その中でじめじめしているタイプの映画だ。
僕はこれが嫌いでメジャーに行こうと思ったのに、
東京でもこんなものがうごめく世界があるのか、
と驚いたものだ。
だが、
もしあなたが「哲学的」なことをやりたいなら、
半径2メートルの映画でやるべきではない。
予算がしょぼくて、絵がつまらなくて、
話も哲学的ならば、救いがないからだ。
それは、メジャーでやるべきなのだ。
制作費10億円クラスでやればよいのだ。
メジャーは派手な仕掛けをするに十分な予算をもち、
芸達者な役者を多数集められる。
「あとはすることを考えてください」という状態になっているわけ。
人を集めるガワさえうまくつくれれば、
中身は「実は哲学」で構わないのである。
むしろ、そんな志の高さを、みんなやりたがっているのだ。
正確にいうと、
一人称哲学ではだめだ。これではマイナー自主映画になってしまう。
ナレーション禁止、窓の外をただ見ているカット禁止、
自分が何もしてないくせに誰かが世界を動かしてくれるのを禁止。
「私から見た世界の描像」を禁止。
本気で、三人称哲学をやればいいのだ。
つまり、ある人とある人がコンフリクトを起こし、
それを解消するまでの本気の物語をつくればいいのである。
その中で、アンチテーゼとテーゼが対決するようにして、
テーゼが勝利すれば、
テーゼで示せる哲学を証明したことになるわけ。
難しいテーゼは、アンチテーゼと対比することが難しい。
だけど、いったんそれが出来たら、
おそらく表現可能だ。
多くのハリウッド名作映画は、
大作できちんとそれをやっているではないか。
人間ドラマで哲学を描いているではないか。
だめなのは、一人称の範囲内で完結することである。
三人称の相克ドラマをきちんとやればいいだけだ。
でもそれってしょぼい日本映画にしかならないから、
やるならきちんとメジャーでやろうぜ、
ということを言おうとしている。
むしろ、そのようなことが出来ないから、
日本映画の大作はただ金をかけただけで失敗しているのだ。
(金をかけて俺のオナニーをみろ、
で終わってしまっている)
哲学を三人称で表現することはたいへん難しい。
しかし全然不可能ではない。
ハリウッドの人間ドラマの名作をみればよいし、
アクション大作にすらそのようなものはたくさんある。
日本映画でできないわけがない。
そう思って、今日もシナリオを書くべきだ。
2025年10月31日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック

