2025年10月31日

「人間とは」は、むしろメジャーでやるべき

人間とは、自分とは、世界とは。
哲学的なテーマを、自主映画ではとかくやりがちだ。
まあ、人間の関心がそこにあるからしょうがない。

けど、一人称形式の小説ならわかるが、
三人称形式の映画ではおそろしくつまらない。
だから、湿ったれた、ブンガクになってしまって、
誰も顧みなくなる。


僕は京都で自主映画をやっていた。
周りには「哲学的」なテーマをやりたがるやつらばかりだった。
それはダメだよ、映画ってもっと娯楽だろ、
という一派がうちのサークルで、
自主界では異色だったと思う。

「哲学的」な自己表現は所詮オナニーである。
いつも喧嘩をして、僕らは彼らを見下していた。

なぜなら、「哲学的」な映画はつまらないからだ。
正確にいうと、一人称のつぶやきばかりになって、
三人称のドラマにならないのである。


プロになって、
まだ自主映画的な、いわゆる日本映画が多いことに気づく。
予算がないから、
派手な仕掛けができず、
半径2メートルならば撮影が出来るから、
その中でじめじめしているタイプの映画だ。
僕はこれが嫌いでメジャーに行こうと思ったのに、
東京でもこんなものがうごめく世界があるのか、
と驚いたものだ。


だが、
もしあなたが「哲学的」なことをやりたいなら、
半径2メートルの映画でやるべきではない。
予算がしょぼくて、絵がつまらなくて、
話も哲学的ならば、救いがないからだ。

それは、メジャーでやるべきなのだ。
制作費10億円クラスでやればよいのだ。
メジャーは派手な仕掛けをするに十分な予算をもち、
芸達者な役者を多数集められる。
「あとはすることを考えてください」という状態になっているわけ。
人を集めるガワさえうまくつくれれば、
中身は「実は哲学」で構わないのである。
むしろ、そんな志の高さを、みんなやりたがっているのだ。

正確にいうと、
一人称哲学ではだめだ。これではマイナー自主映画になってしまう。
ナレーション禁止、窓の外をただ見ているカット禁止、
自分が何もしてないくせに誰かが世界を動かしてくれるのを禁止。
「私から見た世界の描像」を禁止。

本気で、三人称哲学をやればいいのだ。
つまり、ある人とある人がコンフリクトを起こし、
それを解消するまでの本気の物語をつくればいいのである。
その中で、アンチテーゼとテーゼが対決するようにして、
テーゼが勝利すれば、
テーゼで示せる哲学を証明したことになるわけ。

難しいテーゼは、アンチテーゼと対比することが難しい。
だけど、いったんそれが出来たら、
おそらく表現可能だ。

多くのハリウッド名作映画は、
大作できちんとそれをやっているではないか。
人間ドラマで哲学を描いているではないか。

だめなのは、一人称の範囲内で完結することである。
三人称の相克ドラマをきちんとやればいいだけだ。
でもそれってしょぼい日本映画にしかならないから、
やるならきちんとメジャーでやろうぜ、
ということを言おうとしている。

むしろ、そのようなことが出来ないから、
日本映画の大作はただ金をかけただけで失敗しているのだ。
(金をかけて俺のオナニーをみろ、
で終わってしまっている)


哲学を三人称で表現することはたいへん難しい。
しかし全然不可能ではない。
ハリウッドの人間ドラマの名作をみればよいし、
アクション大作にすらそのようなものはたくさんある。

日本映画でできないわけがない。
そう思って、今日もシナリオを書くべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 06:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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