想像の余地を残そう。
それは腹八分目にする、ということだ。
足りないのでは、という不安が、
どんどん足して、情報量を増やす傾向に拍車をかけてしまう。
要素が増えることで一瞬より面白くなっていくような錯覚があるんだけど、
シンプルでよかったものが、ややこしくなって爽快な理解でなくなる、
ということはとてもよくある。
たとえばじゃんけんを例に考えよう。
グー、チョキ、パーというシンプルな三すくみだったのに、
「3つじゃ足りないのでは」と不安になって、
ニョーという新しい4つめの何かを足すことにしよう。
勝ち、負け、あいこ、というシンプルな三すくみが、
グーはニョーに勝つがニョーはパーに負け、チョキとはあいこである、
そしてニョー同士もあいこである、
みたいな定義をすると、話がややこしくなってしまう。
書き手としては、3じゃ足りないかも、4くらいがおなか一杯になるのでは、
などと考えるのだが、
実際食わされる身になると、
腹八分目くらいがちょうどよいのである。
ニョーがあることによって、
体験としては腹いっぱいになる、すごいものであったとしても、
二度と味わいたくないものになるのなら、
それはよいものか?ということだ。
整理する、とはこういうことをいう。
4は多い、3にしよう、とそこで判断できるか?
ということだ。
それは、あなたという書き手から見て、
やや足りないくらいがちょうどいいかもしれないよ。
なぜなら、あなたは何度も何度もこの素材をこねくり回して、
この素材のことに慣れているからそう思うのであって、
みんな「これを初見」と考えるべきなんだよ。
初見で十分、じゃんけんのルールを吟味できるようになっておくべきであって、
初見でグー、チョキ、パー、ニョーの戦略やひっかけまで、
想像することは無理があるのだ。
たとえば日本人向けにはこうしたアレンジじゃんけんは題材になるかもだけど、
外人はじゃんけんを知らない。
1/3ずつの確率で、勝ち、負け、あいこがありえて、
結局確率は等しいランダムゲーム、
と理解するまで時間がかかると思う。
複数人のじゃんけんが決着がつきにくい欠点に気づくまで、
さらにかかるだろうし、
そういう時はグーパーで多い方みたいなローカルルールや、
司会者とのじゃんけんで絞っていく、
みたいなルールになることまで理解するのは、
1本の映画内ですら難しいかもしれない。
で、なぜニョーを足してしまうかというと、
「自信がない」からじゃないか、
というのが本題だ。
他の名作に比べて、物足りないと思ってしまうのではないか、
という不安がニョーの正体だと僕は思う。
腹八分目が正しいのに、
ニョーを足して12分くらいにしてしまうのが、
不安というものなんじゃないか。
12じゃまだ足りない、もっと油を足せ、もっとカロリーを、
なんて思って、15くらいの、
脂っこいアメリカのハンバーガーみたいになってしまうんじゃないかなあ。
(ポテトつけたらもう食えないくらいの量になるよ)
そうじゃないんだ。
シンプルに面白いものを、
腹八分目で出すんだよ。
そうしたら、
「もっと楽しみたい」になるんだ。
そうしたら、
次のあなたの作品にも来てくれるかもしれないよ。
「二度とこの油は摂取しなくていいや」
と思われるなら、
そこは売れる店にならないんだよな。
(一部の客は、「これがたまらん」とリピートするかもしれない。
だけどそれは、メジャーなものにはならないだろう)
演出はこってりできると思う。
でも話は腹八分目がいいんじゃないか。
役者が足したりできる余裕があったり、
観客が想像をする隙間があったり、
あのあとどうなったんだろう、なんてあとで思うような、
余裕のあるものになっていると、
想像をしみこませる余地が生まれるように思う。
細かすぎる粒度の話は、
どこか荒い部分が欲しくなる。
人間というのは、目詰まりしているフィルターだと、
しんどいんだと思う。
ときどき、どこかから漏れ出るようなものが欲しいんじゃないかなあ。
それが、隙間だと思う。
ということで、
不安から油をこってりさせるのはやめたまえ。
たいてい胸やけするものになる。
腹八分目のような、
懐石料理のような、
余裕のある脚本になるといい。
それを他人に読ませて、
「少し物足りない」と言われたら、
それは六分目だったのだ。
八分目に調整することは、
ベテランでも難しいかもしれないね。
2025年12月20日
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