2026年01月04日

ひらがなや和語は、行動に近くなる

前の記事からのつづき。
成長とか変化とかの熟語を、
「一皮むける」に置き換えると、扱いやすくなると思う。

一般的に、熟語は概念的になりすぎて、
あたまでっかちになりがち。
そういうときは、和語やカナにひらくと、
肉体に落ちやすい。


差別をしない、偏見をもたない、
をそのままテーマとして描くのはたいへん難しい。
だけど、
「みんな同じに扱う」
「違いをみとめる」
などにするとわかりやすくなる。
「違いによって扱いを変えない」でもいい。

差別を解消する物語を書きましょう、
と熟語で会話すると、
どうしていいいか、さっぱりわからない。
しかし、
「違いを認める話を書きましょう」になると、
だいぶ書けそうになってくるよね。


熟語は抽象度が高すぎるのかもしれない。
和語は具体性が高いから、
肉体にあっているのかもしれないね。

さらに抽象度が上がった、外来語で考えるとわかる。


たとえばコンプライアンス。
何が言いたいのかいまだにわかりにくい。
それを訳した法令遵守といってもわかりにくい。

違反がないです、法に触れていません、
と訳せば、自分でもできる内容になるんだよね。
ほとんどのコンプライアンスは企業の文脈でできているから、
個人よりも企業としての社会的使命として訳したほうがよい。
なので、
白い企業、といってもいいくらいだ。
シロという隠語くらいになると、もっと肉体的になる。
クロだと、やってんなあ、ってことになるわけ。
コンプライアンス違反とか難しいことをいうよりも、
あれはクロですぜ、のほうがわかりやすくなるんだよ。


だから、成長とか変化とかアークとかは、
むずかしく考えずに、
「成長って和語でいうとどういうこと?」と考えて、
そだつ、のびる、ちょっとふえる、
などに置き換えたほうが、肉体的なDOに落としやすくなるわけだ。


これはあらゆるテーマでも考えられる。
「友情をテーマ(モチーフ)にして何かをやりたい」
と思ってもなかなか難しいのだが、
「ある友達について書こう。
仲よくなったり、仲たがいするのだ」
となるべく和語で考えればわかりやすくなる。

和語とはひらがなや訓読みのことだ。
漢字のうち音読みが漢語だね。

「戦争と平和について書こう」と思っても、
抽象的な話しか書けない。
物語は具体だ。
だから、
「敵の国の人と仲良くなることで、
敵と戦うことがばかばかしくなる話を書こう」
と和語にひらけばいいんだよ。

戦争を平和にするためにはどうすればいいか?
なんて抽象思考すると、
それは抽象的な解決しか思いつけなくなる。
「条約を徹底して国連で監視し、
互いの平和意識によって牽制しあう」
なんて、熟語で解決策を考えてしまう。

それは抽象的な解決であって、
物語で描くべき、
具体的な文脈や登場人物や行動には落ちないのだ。


逆もできる。
「敵の国の人と仲良くなる話」を、
「戦争と平和の物語」などのように抽象化できる。
こうすることによって、
具体物を捨象して、一般化できる。
さらに外来語で一般化してもよい。
「アンチウォーストーリー」などのようにだ。

抽象化、一般化は逆行しにくい。
「アンチウォーストーリーを書いてください」
という依頼に対して、
「敵国の人と村で仲良くなる話を書きます」
と返しても、?になるんじゃなかろうか。
しかしそれがうまく書ければ、
「よくできたアンチウォーの話である」
なんて絶賛する人があとを絶たないはず。

このようにして、
我々は抽象を具体に変換して考えて、
全部できたら、抽象に戻していくとよい。


これができないと、
自分で分析するときにおかしくなると思う。
「俺は今復讐の物語について書いているのだが」
などと熟語で考えているなあ、
と思ったら、
「これは仕返しの話だ」と思うと、
急に書けそうになるよね。

具体的にだれがだれにどう仕返しをするのか、
それはなぜなのか、を考えやすくなる。
それを描き切ったうえで、
人に説明するときだけ、
「これは復讐の物語です」なんて抽象化してやればいいだけのことだ。

他人を理解するときに、抽象化された熟語や外来語を使う。
これは分析の言葉にすぎない。
自分でなにかをするときは、和語で考えたほうが、
行動に近くなる。


僕の好きな話だと、
「相撲の決まり手はすべて音で聞いても状況がわかるものになっている」というやつ。
もともとラジオ放送に耐えられるようにそうしたんだけど、
結果的に、全部和語+動詞になっているのがおもしろい。

つきだし、よりきり、うわてなげ、つきおとし、
おしだし、あびせたおし、すくいなげ、
などなど、文字だけで状況がわかるのがすごいよね。

前記事で成長を「一皮むける」といい変えた。
あるいは、
そだつ、のびる、などのように、
和語で言い換えると動詞が出やすい。
なので、動詞という物語の本質にたどり着きやすいのかもしれない。


あなたの話のテーマはなんですか?
どういう事件があって、
どういう設定で、
どういうプロット?

それを熟語や外来語で示しているのは、
あくまで外向けの資料でよい。

あなたが書くための、あなたへの資料は、
それを全部熟語外来語禁止にして、
和語で書いてみるといい。
そうしたら、別の発想にたどり着けるぞ。

熟語とはいえ、しょせんは外来語(中国)だ。
僕らのネイティブは和語だよな。

日本語は外来語でパッチを当てて、
より高度な抽象化をできるようになったが、
根本は和語をベースにしているのだ。
その根元まで下りるには、
外来語(熟語含む)を全部つかわないといいんだぜ。

(わざと禁止とか言わなかった。
禁止だと思考停止で終わるが、
「つかわない」とはどういうことだろう?
と、考えが進みやすくなると思う)

posted by おおおかとしひこ at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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