人はいつ成長するのだろう?
限界を超えたときだろうか?
限界以内ならなんとかなってしまうので、成長はない気がする。
でも、限界を超えて壊れてしまうと、成長もくそもない気がする。
正解は、
「限界を超えたが、ぎりぎりなんとかしたとき」じゃないかしら。
限界を超えるだけだと、死んでしまう。
肉体的にも、精神的にもだ。
仮に肉体が死ななくても、
精神が死んでしまうときがある。
精神的に壊れる、というやつだ。
実際に精神病になるかもしれないし、
懲りたり怖くなって、二度と挑戦しなくなるかもしれない。
それは成長ではなくて、恐怖や逃走の学習のようである。
自分のキャパをオーバーするかどうか敏感になり、
オーバーしそうなら逃げる学習をしただけになる。
限界ぎりぎりで、
壊れる前になんとか突破する、
そして、ゆっくり休んだあとは、
自信がつく。
それが成長というループじゃないだろうか。
つまり、
我々神である作者は、
主人公がぎりぎり突破できる、
しかも限界以上の試練を与える必要がある。
主人公はそのぎりぎりのハードルをぎりぎり、
壊れる寸前に超えて、
ゆっくり休んだら、
一皮むけていることになるわけ。
なぜか、をあまり問わなくても、
経験的にそれを知っているはずだ。
筋肉の超回復のように、
精神も超回復することがある。
そして、つらい目にあうほど、
人格者になるというのはよくある話だ。
あの地獄を生き延びてきたくらいだから、
今はそれに比べればまし、
と達観できるようになるわけだ。
つまり、成長の一つには、達観がある。
余裕が出るとか、自信がつく、
などもあるだろう。
その限界ぎりぎりのハードルは、
どうやって設定しよう?
自分を基準に考えないことだ。
自分が甘い人ならば、
ハードルを下げ気味にしてしまい、
そんなの楽勝だろ、何甘えてんだ、
と言われてしまうに違いない。
自分が厳しい人ならば、
誰も超えられないハードルを設定してしまい、
ハードモードになってしまうだろう。
つらすぎる話になってしまうかもしれない。
つまり、自分基準だと、
多くの人が見るものの基準とは違うかもしれない、
という想像力をもつべきである。
だから、ハードルの困難さは、
他の映画で勉強するとよい。
自分(観客としての自分)は超えられないが、
この主人公ならば超えられる、
というぎりぎりにうまく設定してあるはずだ。
あなたが超えるのではない、主人公が超えるのだ、
ということを考えよう。
ぎり壊れない、ぎり楽勝にはならない、
実に絶妙な、
ぎりぎり突破可能なハードルたちに、
なっているはずだ。
もちろん、一発で成功するわけがない。
失敗して、別のルートからチャレンジして、
また失敗して……
となっているパターンもある。
だから限界ぎりぎりなんだよな。
「ラストチャンスだ」「あと一発しか打てない」
なんてのはよくあるクライマックスだね。
ぎりぎりなわけさ。
その限界ギリギリをぎりぎり超えられたときに、
人は少し成長すると思う。
修羅場をくぐったら、面構えが変わるわけだね。
修羅場を先に設定するのか、
主人公の能力を先に設定するのかは、
話によって異なると思う。
どちらかを変えたらゲームバランスが崩れるから、
どちらかを変えて再調整することもあるだろう。
修羅場を調整したら、
ぎりぎりの能力を調整しなおす必要があり、
能力を調整したら、
ぎりぎりの修羅場を調整しなおす必要がある。
ゲームの調整みたいだね。
というわけで、
壊れない、ぎりぎりのラインをいつも狙おう。
つまり、
よくできている映画の中では、
つねにぎりぎりの修羅場なのだ。
それを我々は見て、ハラハラするわけだ。
2026年01月05日
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