2026年01月05日

限界を超えたら、成長するか?

人はいつ成長するのだろう?
限界を超えたときだろうか?

限界以内ならなんとかなってしまうので、成長はない気がする。
でも、限界を超えて壊れてしまうと、成長もくそもない気がする。


正解は、
「限界を超えたが、ぎりぎりなんとかしたとき」じゃないかしら。

限界を超えるだけだと、死んでしまう。
肉体的にも、精神的にもだ。
仮に肉体が死ななくても、
精神が死んでしまうときがある。
精神的に壊れる、というやつだ。

実際に精神病になるかもしれないし、
懲りたり怖くなって、二度と挑戦しなくなるかもしれない。
それは成長ではなくて、恐怖や逃走の学習のようである。
自分のキャパをオーバーするかどうか敏感になり、
オーバーしそうなら逃げる学習をしただけになる。

限界ぎりぎりで、
壊れる前になんとか突破する、
そして、ゆっくり休んだあとは、
自信がつく。
それが成長というループじゃないだろうか。

つまり、
我々神である作者は、
主人公がぎりぎり突破できる、
しかも限界以上の試練を与える必要がある。

主人公はそのぎりぎりのハードルをぎりぎり、
壊れる寸前に超えて、
ゆっくり休んだら、
一皮むけていることになるわけ。

なぜか、をあまり問わなくても、
経験的にそれを知っているはずだ。
筋肉の超回復のように、
精神も超回復することがある。

そして、つらい目にあうほど、
人格者になるというのはよくある話だ。
あの地獄を生き延びてきたくらいだから、
今はそれに比べればまし、
と達観できるようになるわけだ。

つまり、成長の一つには、達観がある。
余裕が出るとか、自信がつく、
などもあるだろう。


その限界ぎりぎりのハードルは、
どうやって設定しよう?

自分を基準に考えないことだ。
自分が甘い人ならば、
ハードルを下げ気味にしてしまい、
そんなの楽勝だろ、何甘えてんだ、
と言われてしまうに違いない。

自分が厳しい人ならば、
誰も超えられないハードルを設定してしまい、
ハードモードになってしまうだろう。
つらすぎる話になってしまうかもしれない。

つまり、自分基準だと、
多くの人が見るものの基準とは違うかもしれない、
という想像力をもつべきである。


だから、ハードルの困難さは、
他の映画で勉強するとよい。
自分(観客としての自分)は超えられないが、
この主人公ならば超えられる、
というぎりぎりにうまく設定してあるはずだ。

あなたが超えるのではない、主人公が超えるのだ、
ということを考えよう。

ぎり壊れない、ぎり楽勝にはならない、
実に絶妙な、
ぎりぎり突破可能なハードルたちに、
なっているはずだ。

もちろん、一発で成功するわけがない。
失敗して、別のルートからチャレンジして、
また失敗して……
となっているパターンもある。
だから限界ぎりぎりなんだよな。
「ラストチャンスだ」「あと一発しか打てない」
なんてのはよくあるクライマックスだね。
ぎりぎりなわけさ。

その限界ギリギリをぎりぎり超えられたときに、
人は少し成長すると思う。
修羅場をくぐったら、面構えが変わるわけだね。

修羅場を先に設定するのか、
主人公の能力を先に設定するのかは、
話によって異なると思う。
どちらかを変えたらゲームバランスが崩れるから、
どちらかを変えて再調整することもあるだろう。

修羅場を調整したら、
ぎりぎりの能力を調整しなおす必要があり、
能力を調整したら、
ぎりぎりの修羅場を調整しなおす必要がある。
ゲームの調整みたいだね。


というわけで、
壊れない、ぎりぎりのラインをいつも狙おう。
つまり、
よくできている映画の中では、
つねにぎりぎりの修羅場なのだ。
それを我々は見て、ハラハラするわけだ。
posted by おおおかとしひこ at 09:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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