これは基本であり、奥義な感じがする。
情報量過多はよくない。過小もよくない。
ちょうどよい情報量を与えて楽しませるには、
どうすればいいだろう。
与える情報を分類してみよう。
A それがあることで楽しめるもの
B それがあることで余計なもの
C それがないことでわからなくなるもの
D それがないことでかえって想像が膨らむもの
E それがあることで誤解するもの
F それがないことで誤解するもの
G それがないことであとあとを期待できるもの(伏線)
H それがあることであとあとを期待できるもの(伏線)
I それがあることであとあと来ることが台無しになるもの(ネタバレ)
J それがないことであとあと来ることが効果がなくなるもの(伏線の消失)
今その場で判断する情報と、
あとあとの関係性で判断する情報と、
全体のバランスで判断する情報がある。
あるべきものを捨ててはいけない。
余計なものだけを捨てるべきだ。
最低限はどのセットだろう。
伏線と解消の一組ごと捨てる手もある。
それをカットすることで、余計に想像が膨らむならば、
カットする価値がある。
つまり、その情報量の存在価値、作品への寄与を、
うまく見積もれたとき、
情報量はコントロールできる。
ふつう、これは勘でやる。
これくらいのことを説明したり、伏線を敷いておくと、
ちょうどよく楽しめるだろうなあ、とか、
これ以上情報を増やすとややこしくてわからなくなるから、
あえてカットしておこうとか、
ここは説明しないとわからないので、
きちんと場を設けたうえで、ちゃんとやろうとか、
この説明を今省いたほうがテンポがよくなるし、
むしろペンディングされたことでヤキモキするぞ、とか。
「明かされていない情報がある」と、人は楽しめるとか。
こんなことをリアルタイムで見る人の気持ちになって、
書き手というのは書くものだ。
それが乱れたときに、
情報量が歪み、わかりにくかったり、面白さがなくなったりすることを知っておくとよい。
たとえば、
「実は書きたかったことがあり、ここに挿入すれば問題ないと判断する」などは、
結構危険だね。
それはあったほうがいいのか、ないほうがいいのかを、
検討していないからだ。
「実は書きたかったこと」という作者の思いでやっしまっていて、
受け手の気持ちを考えていないからだね。
もちろん、ある程度は熱量があったほうがいいので、あるべきかもしれない。
でもなくてちょうどいいところに、余計なものが挟まって、
全体の見通しが悪くなると、つまらなくなる、
ということのほうが多いと思う。
書きたかったことは、わざと黙っておけ。
沈黙が金になることもある。
あるいは、
「これくらいわかるだろう」という見積もりが甘いこともある。
その前提になる経験をしたことがないとか、
その前提になる知識がないとか、
その前提になる作品を見ていないとか、
全然あるね。
そういうのは、誰かに読んでもらったほうがわかりやすい。
「これはわからない」は確実に言ってくれるだろうし。
「これは余計である、削ったほうがいい」は、
判断が難しい。
「つまらない」ことと区別ができないからね。
でも「自分がわからない」は感覚として確実なので、
それは足りないからの可能性が高い。
(余計なものをカットしたら急にわかることもある)
その情報は、AからJの、どれに該当するのか?
あるべきものを残して、あるべきもののカットをやめて、
ないべきものをカットして、ないべきものを増やさず、
最小限の情報量にして、
最高の隙間を開けておかないといけない。
観客は、脚本の世界に遊びに来る。
詰め込みにくるのではない。
食べ放題に来るのではない。
楽しみに来るのだ。
あー、これは一応用意したけどいらなかったなー、
という皿は、出さなくてよい。
腹八分目にしておくとしたら、何だけで構成するか?
を考えるとよい。
そしたら、デザートくらいは出してもよい。
食いきれない量に、デザートは別腹だからと詰め込んではいけない。
文字量はある程度詰めるテクニックがあるが、
それを駆使して詰め込んでもいいことはない。
そうじゃなくて、情報量を増減しているのだから、
という考えでリライトしなければならない。
あるものの前をカットしたり、あとをカットしたり、
中間だけをカットしたりしてもよい。
あるものをまるっとカットしたときに、
何が失われて、何が得られるのかを考えるときに、
それはAからJのうち、
どれにあたるのかを検討しなおすことだ。
リフレインが重要なこともある。
だからその隙間が必要だ。
リフレインがしつこいこともある。
(最後に、
だからAからJを検討せよ、という一文をわざとカットした。
しつこいからだ。
このことで、考えるべき間をつくったのだ)
2026年01月07日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック

