もちろんそれは三人称だから、
客観的視点ではあるのだが、
それは誰から見た主な景色か、
つまり、感情移入の対象は誰か、
によって、切り取り方は異なる。
AがBを殺すシーンを考えよう。
客観的には殺人シーンがあったわけだ。
だが、
Aがこれまで恨みを重ねて重ねて、
ついにBの殺害に成功した場合、
それは正義の遂行に見えるかもしれない。
あるいは、
Bがこれまで人に親切にして感謝されていて、
今日は娘の誕生日なので早めに帰ってケーキを予約していた場合、
理不尽に殺されたシーンになるだろう。
つまりモンタージュである。
前にどういう文脈が来ているかで、
A「オラー!」
A、包丁でずぶりとBを刺す。
飛び散る血。
B「……」
血の気が引き、血がどくどく出る。
倒れこむB。放心状態のA。
みたいなシーンが、
「どちらから見た景色なのか」が決まるわけ。
つまり投影だ。
客観的な景色を描きながら、
実はどちらかの人物の、
感情の投影になっているわけだ。
もちろん、Aの事情もBの事情も描いておき、
Aのカタルシスがありながら、
かつBの理不尽さもあるような、
両方の状態を重ね合わせたようなシーンをつくることもできる。
それも、
このシーンをいじるのではなくて、
前のシーンをどう見せているか、によるわけだね。
これが小説のような一人称形式ならば、
どちらから見るのか、明らかにできるかもしれない。
地の文でどちらかに肩入れすることもできる。
(両方に肩入れすることもできる)
しかし映像には地の文がないので、
それまでの文脈が投影を決めるといっても過言ではない。
これはリライトでもコントロールできる。
Aに感情移入が足りないなあ、と思えば、
Aの事情などを前に挿入すればいいわけだ。
(あとで挿入して、実はこうだったのだ、
という形式でもよい)
あるいはBへの感情移入を減らしてもよい。
Bに感情移入させる時は、その逆をすればよい。
あるシーンはどちらのものか、
というのはこういうことだ。
アクションする側が主人公とは限らない。
そのアクションを含む場面は、
誰から見た場面なのか、
を考えることは重要だ。
ある場面を書こうとしたときに、
Aの場面として書こうとしたが、
Bの場面にしたほうがおもしろい、
と途中で、ないしあとで気づくことだってある。
そういうときはAの感情移入をカットして、
Bの感情移入を盛り直せばいいわけ。
あるいは、わざと描かずに、
ネタバレを取っておいてもいい。
ただ「殺された???」という驚きから始めて、
両者の事情を回想して、
その場面にもう一度来たっていいのだ。
その場面は誰のものか。
沢山話す人のものでもないし、
沢山行動する人のものでもないし、
沢山動機がある人のものでもない。
もちろん、アップが沢山ある人のものでもない。
それは、場面が決めるのではなくて、
作者の意図が決めるのだ。
だから、作者が決めなければ、
いつまでたってもそれは文脈にはならない。
2026年01月10日
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