2026年01月10日

そのシーンは誰の視点か

もちろんそれは三人称だから、
客観的視点ではあるのだが、
それは誰から見た主な景色か、
つまり、感情移入の対象は誰か、
によって、切り取り方は異なる。


AがBを殺すシーンを考えよう。
客観的には殺人シーンがあったわけだ。

だが、
Aがこれまで恨みを重ねて重ねて、
ついにBの殺害に成功した場合、
それは正義の遂行に見えるかもしれない。
あるいは、
Bがこれまで人に親切にして感謝されていて、
今日は娘の誕生日なので早めに帰ってケーキを予約していた場合、
理不尽に殺されたシーンになるだろう。

つまりモンタージュである。
前にどういう文脈が来ているかで、

A「オラー!」
 A、包丁でずぶりとBを刺す。
 飛び散る血。
B「……」
 血の気が引き、血がどくどく出る。
 倒れこむB。放心状態のA。

みたいなシーンが、
「どちらから見た景色なのか」が決まるわけ。

つまり投影だ。
客観的な景色を描きながら、
実はどちらかの人物の、
感情の投影になっているわけだ。

もちろん、Aの事情もBの事情も描いておき、
Aのカタルシスがありながら、
かつBの理不尽さもあるような、
両方の状態を重ね合わせたようなシーンをつくることもできる。
それも、
このシーンをいじるのではなくて、
前のシーンをどう見せているか、によるわけだね。

これが小説のような一人称形式ならば、
どちらから見るのか、明らかにできるかもしれない。
地の文でどちらかに肩入れすることもできる。
(両方に肩入れすることもできる)

しかし映像には地の文がないので、
それまでの文脈が投影を決めるといっても過言ではない。


これはリライトでもコントロールできる。
Aに感情移入が足りないなあ、と思えば、
Aの事情などを前に挿入すればいいわけだ。
(あとで挿入して、実はこうだったのだ、
という形式でもよい)
あるいはBへの感情移入を減らしてもよい。
Bに感情移入させる時は、その逆をすればよい。


あるシーンはどちらのものか、
というのはこういうことだ。
アクションする側が主人公とは限らない。
そのアクションを含む場面は、
誰から見た場面なのか、
を考えることは重要だ。

ある場面を書こうとしたときに、
Aの場面として書こうとしたが、
Bの場面にしたほうがおもしろい、
と途中で、ないしあとで気づくことだってある。
そういうときはAの感情移入をカットして、
Bの感情移入を盛り直せばいいわけ。

あるいは、わざと描かずに、
ネタバレを取っておいてもいい。
ただ「殺された???」という驚きから始めて、
両者の事情を回想して、
その場面にもう一度来たっていいのだ。


その場面は誰のものか。
沢山話す人のものでもないし、
沢山行動する人のものでもないし、
沢山動機がある人のものでもない。
もちろん、アップが沢山ある人のものでもない。

それは、場面が決めるのではなくて、
作者の意図が決めるのだ。
だから、作者が決めなければ、
いつまでたってもそれは文脈にはならない。
posted by おおおかとしひこ at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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