2025年12月04日

【薙刀式】書かれた言葉は誰のものか

また難しい話を。
https://x.com/catfist/status/1996127692249514094?s=20


手が言葉化する以上、
言葉そのもの、文章そのものは、
僕の中の言葉ではない。
僕の領域を脳までだとしてね。

だから、僕は言葉を発しない。
僕は「思う」のみだ。
それを手が言語化して、
外部装置として他人に読める形にする。

なので、その言葉や文章は、
僕は初見だ。
「ほほう、この登場人物はこう思ってるのか」と、
初見で驚いたりする。

ん?
じゃあ僕はなんなんだろう?
依り代?


> 他者になりきるというのはむしろ小説的な感覚で、だからラノベ作家は自分とキャラの対談を書ける。

他者になりきるというのは演技論でもある。

憑依型は他者の魂を自分に入れる。
構築型は、他者を観察した上で自分を見て、
その他者として見えてるかどうかをチェックする。

僕は憑依型なんやろか。
憑依させながら、
やっぱり外からも見てるかな。
んじゃ構築型か。
まあ、カメラを切り替えたり移動させてるんだろうな。
そのカメラを構えてるのは俺か。
観客としての俺だな。

つまり、
依り代の俺とカメラを持つ俺が、
観客の俺に向けて話を書いているわけか。

だから書いてる時は分裂症になりがちなんよな。
なので、映画がちゃんと終わらないと精神が破綻しそうになるのかもね。

ついでに、書かれた言葉を見て、
これは観客の俺としてこうしたほうがいいというのと、
いや俺が見た風景じゃねえ、書き直せよ手、
という俺がいて、
まあまあ、とはいえこっちのほうがいいんじゃね?と、
収める俺もいるな。

それらは同時進行の場合もあるし、
適宜スポーツ中継のようにカメラが切り替わってるともいえる。


で、俺とそのキャラが対談する場面は、
書けることは書けそうだけど、
どの俺が喋ればいいの?って迷いそう。
なので、
「対談する俺」という出演者人格をつくって、
それをカメラで撮る俺と観客の俺と、
指示を出す俺、あと文章を見る俺と、
文句を裁定する俺などを、また呼ぶことになるだろう。
つまりどこまでいっても自分を分割するんだろう。

で、この脳作用の負荷が高すぎるから、
文章は手に任せてるんじゃなかろうか。
で、それをキーボード×IME×ディスプレイだと、
負荷が高すぎるんではないかなー。
ペン1本と、時にペン先も見ずに、
自動書記できないとしんどいんじゃないかしら。
posted by おおおかとしひこ at 01:05| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック