よく日本映画の製作現場で言われること。
前の場面、後の場面と、今の場面で、
キャラクターの感情がつながっているか、
今から撮影するカットカットで感情がつながっているか、
なんてことをチェックする。
これはあとで編集で、
テンションがつながっていないミスを防ぐ方法ではある。
だけどさ、そもそもそんなものつながってなくて、
何が台本よね。
実際のところ、感情がつながっているのではない。
もし感情だけで動いているのだとしたら、
動物みたいなものになってしまうではないか。
この人はここではうれしいが、ここでは怒っていて、
ここでは悲しいのだ、
だとしよう。
なんで?が台本だろうに。
つまり、なぜそういう感情が生まれているか、
事情や理由があるはずだ。
行動の結果、あるいはニュースとして何かがあるから、
その感情が生まれているはずだ。
つまり、台本とは感情ではなくて、原因である理屈が書いてある。
もちろん、明示的とは限らず、
間接的に書いてある場合もある。
その結果としての感情は、ト書きに書いてあることもあるだろう。
また、その理屈による感情を、
その通りに示すかどうかもまた事情によるのではないだろうか。
ものすごく悲しくても、今涙を人前で流すわけにはいかない、
となったら、
深い悲しみを隠してその場をやり過ごす、
という場面だってある。
感情をあらわにしていいかどうかは、
またストーリーによって異なるだろう。
つまり、感情だけではない。
その感情に至る理由や事情、
その感情をどう制御するか、まで書いてあるはずなのだ。
明示する必要はなくて、
読み取れれば良し。
読み取れないのは、できていない脚本である。
また、観客は、実は感情でキャラクターとつながっている。
もちろん、事情を説明して、
こういう理由で彼は悲しいのだ、
ということはわかるものだ。
だけど、それがどれくらい悲しいのか、
どれくらい嘆きがあるのかは、
彼の表情で理解するのである。
百聞は一見に如かずであるわけだ。
あるいは、○○で○○なのだから、
これくらい悲しいはずだ、
だが、彼はその悲しみを人前で表さず、
すべてが終わったあとにつつ、と涙が一筋だけ流れることになった、
などのような表現に昇華されていると、
それもまた感情的なつながりになる。
「抑えている」「抑えきれていない」という、
人間の葛藤をそこに見るからだよね。
このように、
「理屈で想像できる感情」を、
「実際の俳優の演技で確認して、
その感情を(ミラー細胞で)共有する楽しみ」が、
映画の楽しみのひとつであり、
それを称して、「感情でつながる」という言い方をするのだと思う。
だから、結果的には、
「感情がつながるように撮ればいい」ということにはなる。
結果的にはあってるが、
たぶんプロセスは間違っている。
台本には、すべてがあるはずだ。
なぜそのようなことになったのか、という事情。
それに対してどのように思っているのか、という感情。
それをどの程度外に出しているのか、という実態。
そしてそれに対して、
どのような行動をしたのか、という行動。
それに対してどのような反応があったのか、という反応。
それに対してどのように思っているのか、という感情。
それをどの程度外に出しているのか、という実態。
そしてそれがどのような結果となったのか、という結果。
それに対してどのようにおもっいてるのか、という感情。
それをどの程度外に出しているのか、という実態。
そしてそれに対して、どのような行動をしたのか……
というループ。
もちろん、それらがよく描けているだけではなくて、
全体が面白くないといけないんだよな。
脚本ってたいへん。
2026年01月23日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック

