2026年01月23日

感情がつながっているか

よく日本映画の製作現場で言われること。

前の場面、後の場面と、今の場面で、
キャラクターの感情がつながっているか、
今から撮影するカットカットで感情がつながっているか、
なんてことをチェックする。

これはあとで編集で、
テンションがつながっていないミスを防ぐ方法ではある。

だけどさ、そもそもそんなものつながってなくて、
何が台本よね。


実際のところ、感情がつながっているのではない。

もし感情だけで動いているのだとしたら、
動物みたいなものになってしまうではないか。

この人はここではうれしいが、ここでは怒っていて、
ここでは悲しいのだ、
だとしよう。

なんで?が台本だろうに。


つまり、なぜそういう感情が生まれているか、
事情や理由があるはずだ。
行動の結果、あるいはニュースとして何かがあるから、
その感情が生まれているはずだ。

つまり、台本とは感情ではなくて、原因である理屈が書いてある。
もちろん、明示的とは限らず、
間接的に書いてある場合もある。
その結果としての感情は、ト書きに書いてあることもあるだろう。

また、その理屈による感情を、
その通りに示すかどうかもまた事情によるのではないだろうか。
ものすごく悲しくても、今涙を人前で流すわけにはいかない、
となったら、
深い悲しみを隠してその場をやり過ごす、
という場面だってある。

感情をあらわにしていいかどうかは、
またストーリーによって異なるだろう。


つまり、感情だけではない。

その感情に至る理由や事情、
その感情をどう制御するか、まで書いてあるはずなのだ。

明示する必要はなくて、
読み取れれば良し。
読み取れないのは、できていない脚本である。


また、観客は、実は感情でキャラクターとつながっている。

もちろん、事情を説明して、
こういう理由で彼は悲しいのだ、
ということはわかるものだ。
だけど、それがどれくらい悲しいのか、
どれくらい嘆きがあるのかは、
彼の表情で理解するのである。
百聞は一見に如かずであるわけだ。

あるいは、○○で○○なのだから、
これくらい悲しいはずだ、
だが、彼はその悲しみを人前で表さず、
すべてが終わったあとにつつ、と涙が一筋だけ流れることになった、
などのような表現に昇華されていると、
それもまた感情的なつながりになる。

「抑えている」「抑えきれていない」という、
人間の葛藤をそこに見るからだよね。

このように、
「理屈で想像できる感情」を、
「実際の俳優の演技で確認して、
その感情を(ミラー細胞で)共有する楽しみ」が、
映画の楽しみのひとつであり、
それを称して、「感情でつながる」という言い方をするのだと思う。

だから、結果的には、
「感情がつながるように撮ればいい」ということにはなる。
結果的にはあってるが、
たぶんプロセスは間違っている。


台本には、すべてがあるはずだ。

なぜそのようなことになったのか、という事情。
それに対してどのように思っているのか、という感情。
それをどの程度外に出しているのか、という実態。

そしてそれに対して、
どのような行動をしたのか、という行動。
それに対してどのような反応があったのか、という反応。
それに対してどのように思っているのか、という感情。
それをどの程度外に出しているのか、という実態。
そしてそれがどのような結果となったのか、という結果。
それに対してどのようにおもっいてるのか、という感情。
それをどの程度外に出しているのか、という実態。

そしてそれに対して、どのような行動をしたのか……

というループ。


もちろん、それらがよく描けているだけではなくて、
全体が面白くないといけないんだよな。

脚本ってたいへん。
posted by おおおかとしひこ at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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