脚本にズレがある、ないを判断するのは難しい。
そういう時は、作者の感情の流れと、
観客のそれがずれているときだ。
観客は初見である。その情報や感情を、初めて見るのである。
一方作者は何回でもそれを体験しているため、
それはそれとしてしまう。
観客は初見である。
その感情に初めて接する。
だから、それを自分の中で整理する時間が必要だ。
たとえば笑いがあるとする。
これは面白いよな、と確認する時間がある。
続けてさらに面白いことが起これば、
ああ、ここは笑っていい場所なんだ、
と安心して笑うようになる。
笑いは一か所だけではない。
たいてい笑いは連続する。
それは、おもしろいことが連続するほうがいい、
というのもあるけれど、
「ここは笑う場面なのである」と、
観客の理解が、今起こっていることよりもやや遅れることに起因する。
ドッカンドッカン行くかは、色んな条件が必要だけど、
別にそこまで温度が高くなくても、
笑いというのは笑っていい、という安心が必要だと思う。
その、安全確認に一発の笑いよりも時間がかかるのだ。
猫は狭いところが好きだ。
そして必ずその安全確認を怠らない。
猫は人間よりも睡眠時間が必要なので、
寝る場所を確保するために、時間をかけるのだ。
そんな風に、
人間だって、「今笑っていい場所」というのを確認するのに、
時間がかかるわけ。
もちろん、お笑いライブに来ているならば、
笑っていい場所という安心感があるから、
すぐに笑い始めると思う。(ネタが面白ければね)
でも映画というのは、
「ここで笑っていい場所なの?」というのにやや時間がかかるだろうね。
シリアスな場面のあと、疲れているときは、
リリーフとしての笑いが必要な時がある。
そのときに、一回だけ面白いことをいうのではなく、
何回か別の冗談を入れたほうが、
あー、心底安心していいんだ、とおもったりするものだ。
泣きもそうだ。
ここは泣いていい場所なのだろうか、
と時間がかかるので、
たたみかけていくのである。
驚きはどうだろう。一瞬で驚くだろうが、
そのあと、「それはいったいどういうことなのだろう」と、
遅れて感情が来るはずだ。
その驚きへのリアクションにうまく答えていないと、
次への感情の誘導に失敗するわけだね。
怒りは?
理不尽なことがあって、これはおかしい、
と怒りに変わっていくとして、
それがもっと強くなっていくには、
さらに理不尽なことがあったり、
普通と対比したりすることで、
「ここは怒っていい場所だ」と思っていくだろう。
つまり、
人間というものは、
いっときの感情が起こっても、
「それは自分の間違いかもしれない」
という冷静さもあるということだ。
「いや、その感情は正しい、だからここでそれを解放してください。なんならエスカレートします」
というのが、
うまい脚本というものだということ。
淡い恋心が生まれた瞬間があったら、
それが徐々に増幅していって、
甘い恋の話になっていくのだ。
こいつ殺す、というほどの恨みが生まれたら、
それがどんどん復讐劇になっていくものだ。
そうして、ある一点の感情があったら、
それをうまく増幅していって、
「これはそういう感情のパート」
という風に、観客がついてこないと意味がない。
へたくそな人は、
観客の感情が、やや遅れてくることを理解していないので、
感情A、感情B、感情Cと、
自分のペースでストーリーをコントロールしようとする。
色々詰め込みたくて、
脚本をカットしているときも同様だ。
〇〇から〇〇を〇〇ページで終わらせなければ、
という義務感から、ついつい端折ってしまうことがまれによくある。
だけどそれは、感情を大事にしていないカットになることがとても多い。
だったら、感情Bを抜くとかしなければならない。
感情が発生する時間がある、
ということを常に把握していないといけない。
それは何分とか、何秒とか、決まっているわけではない。
あなたがその場面を初めて見た感覚で決めるしかない。
初稿では大体それがうまく書けているものだが、
何度も書き直していくうちに、
このほうがスムーズだから、などのように、
流れをスムーズにすることだけに注力してしまい、
観客の感情が遅れて来ることを、理解していないことがとても多い。
もちろん、遅すぎるのもよくない。
とっくにその感情に飽きていて、
次の感情を求めているときに、
まだそれをこすっているとか、
次の強い感情が来なくて迷走ししているとかになると、
それはまた退屈になるわけだ。
観客の感情をまとう。
面白いことを言いますよ、
言いました、じっと観客を見る、笑ってる、
よかった、
さて、その流れを止めないようにまた面白いことを言いますよ、
笑った、次も面白いことを言ってほしいと期待しているでしょ、
じゃあ言います、ほらね、大爆笑。
よし、ペースに乗った、
矢継ぎ早に爆笑ペースだ。
そんなコメディアンの感覚に近いのかもしれない。
次も言います、あー、滑った。
滑ったけど、それもネタにして、爆笑の流れは止めず、
いったん休んでまた別のネタで笑いの温度を上げていく、
みたいなアドリブも必要かもしれない。
いずれにせよ、少し遅れて来る。
それでよいのか、確認する時間がある。
秒単位か、数秒単位か、それとも他の状況を見てか。
それは間であることもある。
ちょっとしたセリフのやり取りかもしれない。
あることを進行しているときに、
少し理解の時間を置くことかもしれない。
2026年01月26日
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