ひさしぶりに小劇場といえる演劇を見てきた。
学生時代、小劇場なるものが流行って、
京都の学生街では学生の小劇場がいっぱいあって、
それに足しげく通ったものだ。
小劇場と、大劇場(と仮にいう)は、何が違うのか。
僕は、発声の仕方だと思った。
この発声の仕方で、物語の規模が変わるよね。
まず、大劇場を考えよう。
伝統的な、一杯入る観客の前でやる芝居である。
これは身振り手振りを大きくして、
発声をしっかりして、遠くに届けなければならない。
だが、これは大げさである。
日本人のコミュニケーションからしたら、
外人みたいになるわけだ。
僕が子供のころ、宝塚劇場の生中継なんかよくやってたけど、
宝塚みたいな(大げさな)演技、
と僕はよくいうことがある。
そんなの、リアルにおらんやろ、ということだ。
だから冷める、というわけだ。
タモリはよく「ミュージカルが嫌い」という。
そんな、リアルに急に歌うやつはおらんやろ、
ということだ。
小劇場がなぜ流行ったのか、の答えがこれである。
つまり、小劇場は、芝居や発声が大げさじゃなくて、
リアルな発声をするんだよね。
客が数十人規模だから、
小さな空間でしゃべれる音量でしゃべる。
だから芝居がリアルに近づくわけだ。
実際のささやき声とかまではいかないにせよ、
我々観客は、「おおげさな宝塚演技」ではない、
実際のリアルに近い芝居を見ることができるわけ。
だから流行ったんだと思う。
リアルがそこにあるんじゃないかと。
逆に、大げさなものはおなかいっぱいであると。
コンパクトカーの流れに似ているかもしれない。
そんないっぱいはいらないです。
リアルに使えるやつが欲しいです、みたいな流れだね。
だけど、だ。
このブログを読んでいる人には、
感情移入は、どんなものでもうまくやればできることを知っている。
宝塚は感情移入できない、リアルじゃないから、
といっている人は、
感情移入の何たるかを知らないわけだね。
宝塚にも感情移入させられるのが、本当の脚本というものであり、
つまり、大劇場は、感情移入に至るだけの、良質な脚本を毎回用意できなかったから、
飽きられたのではないだろうか。
そこの隙間に滑り込んだのが小劇場であり、
リアルが流行ったというのはそういうことだと思う。
で。
小劇場は、物語の規模が小さくなる。
リアルでやれる範囲のことになるからだ。
これはつまり、ハリウッド映画と邦画の関係に似ている。
リアルかもしれないが、しょぼいのである。
逆にハリウッド映画は、演技が大げさだけど、
大規模なスケール感のある話なのだ。
小劇場は、日本人にあっているのかもしれない。
リアルで、半径2メートルの話で。
だけど、邦画ばっかり見てたら気持ちが小さく縮んでしまうよね。
ハリウッド大作があるから、やっと邦画が成立しているようなものだ。
大作のようなでかい規模は、日本だとアニメしかつくることができない。
鬼滅の刃は、だからハリウッド映画を日本でつくったわけだ。
だれも鬼滅の刃が、大げさな宝塚演技とか、リアルじゃないとか言わないでしょ。
そういう世界のものは、そういう世界として受け入れて見るものだからね。
ストーリーの規模に応じた、芝居というものがある。
それだけのことである。
小劇場は、劇場の規模の問題で、
小さなリアルな芝居しかできない。
大げさな演技は、寒いことになりそうだ。
でも寒いのを覚悟して、大規模なスケールの大きい話をやっても悪くないかもしれないね。
(ただ、予算と収入がかみ合うかは知らない)
まあ、ざっくりいうと、
ウサギ小屋の住人はウサギ小屋の規模の娯楽を楽しむわけだね。
それはつまらない、
スケールの大きなものをするべきだ、
という人もいるだろう。
そういう人が、日本の演劇だと大劇場でやるだろうし、
アニメだと大作を作るだろう。
日本の映画だけが、しょぼい範囲でひいひい言っている気がする。
まあ、なんとかするしかないのだが。
2025年12月24日
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