脚本を書くときは、中身と見た目(ガワ)を区別しよう。
ある中身AをガワXで描くべきか、ガワYで描くべきかを考えよう。
あるガワで、中身Aを示せるのか、中身Bを示せるのかを注意深く考えよう。
さて。その例として、よくある例を。
「角のある一族と、ない一族の戦争」なんかを。
僕が子どものころこうした話を見て、
ほんとうに角の生えてる一族がいて、
こういう差別に苦しみ、
角があってもなくても同じじゃないか、
という結論になるのに感動していた記憶がある。
でも長じるにつれて、
それは角の話ではなくて、
「人類の差別の話」であることに気づくわけだ。
角は差別の象徴にすぎない。
差別は色々あるが、
それをガワとしてわかりやすくするために、
「角」という象徴表現にしたのだな、
とわかってくる。
つまり、中身は差別の話であって、
それをガワである「角」で表現している話が、
「角を持って生まれた者たちと、
角を持たずして生まれた者たちの、戦争」
という話の正体である。
たいてい角は妖怪とか鬼とかの話になるので、
鬼と人間の合いの子の話が出てきたら、
それは民族差別がある世界の、
ハーフという運命を背負った人になるわけだね。
じゃあ、別のガワYでも描くことはできるよね。
肌が緑の一族と普通の一族でもできる。
超能力を持つ一族と、そうじゃない一族でもできる。
SFを題材にしないならば、
こちらの村に住む人と、別の村に住む人の間でできるだろう。
最後のものはリアルすぎて息が詰まるよね。
だから、角などという、
ビジュアル的にわかりやすく、しかもあり得ないもので、
象徴表現に代替しているわけだね。
「角の生えた一族の物語」のほうがキャラが立つよね。
「川向うの村の物語」では、ややビジュアル的に弱い。
つまり、
同じ中身を描くにしても、
物語的に、絵的に、キャラが立ったものを選んだほうがいいわけだ。
それは、他と区別しやすくなるからだ。
先日、「空を飛ぶ男二人の友情」の話を書いてみた。
単なる男の友情話が中身なのだが、
それを表現するガワとして、
「悪魔と契約して空を飛べるようになった男」というモチーフを使ってみた。
ここが、物語的なガワということだ。
まさか空飛ぶ男二人の友情話は、この世に二つとないであろう。
だから、他と区別して、立つ話になるということだ。
こんな風にして、
同じ中身を描くにしても、
ガワを変えると仕立てが変わり、
まったく別の物語に見えるだろう。
角の生えた一族の話と、
緑色の肌の一族の話は、
一見同じ中身とは見られないだろう。
「一見〇〇に見える」ということ自体、ガワの話だよね。
ほとんどの観客とプロデューサーは、
このガワを求めている気がしないでもない。
角の生えた一族の話がおもしろそう、受けなさそう、
ということしか判断せず、
二つの民族の差別の話はおもしろそう、受けなさそう、
という話はしないのではないか。
中身AをガワというモチーフXで描くとしたら、
Xばかり見ていて、Aをなかなか見れない、解読できない、
というのは、観客のレベルの問題かもしれない。
この原理をわかったうえで、
私たちは中身Aを書くときに、
どういうXならば受けるだろう?と考えるわけだ。
角の生えた鬼の一族の話にするべきか、
角がもっとSF的な形の、ある惑星と地球の戦争の話にするか、
緑の肌の宇宙人の話にするか、
超能力を持つ高校生と普通の高校生の話にするか、
などを検討するにすぎない。
中身は同じなのに、だ。
そして、Xというガワはいいねえ、
というプロデューサーや観客を見て、
そうだよな、Aを判断するのは高度な読解力が必要だよなー、
むしろ、AとXのマリアージュを評論できるのは、わずかな人だろうなあ、
などとみていればいいだけのことである。
これは、ある程度物語というパターンに慣れることで、
判断できるようになるかもしれない。
Xというガワを使うときは、たいていAの話のときだぞ、とか、
Aを象徴するのにXが使われることが多いよね、とか、
沢山見るとわかってくることも多いね。
角の生えた一族と生えてない一族の話は何で見たかなあ。
なんか子供向けの小説のような気もするし、
ボルテスVのような気もする。
まあ、最初にどれに出会うかはどうでもよくて、
人類には、見た目で差別したり、
民族同士で差別しあうことがある、
ということを学ぶことができるわけだ。
さすがに昨今Xを「肌の黒い一族」にすると、
各方面ややこしいだろう。
だから角に置き換えるんだね。
置き換えは、基本的な比喩表現のひとつだ。
2026年01月29日
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