2026年01月30日

なぜ最後まで書けないのか

色んな理由があると思うが、
ぶっちゃけ、
「最後までできていないのに、書き始めるから」だと思う。


逆に、「最後までできて、書き始める」のか?
という問いはある。
僕はそうだと思っている。
ラストまで決めずに書き始めて、ライブ感満載で、
やれる人はやればいい。
でも出来ないなら、
「最後までつくってから書き始める」
という方法論を検討されたい。

どういうことか。
プロットで最後まで決める程度でよい。
つまり、誰が何を、なぜ、どうやって、結局どうなるか、
などの因果関係を、
ざーっと書ければよい。
セリフや細かいものはまだいらない。
最後までつくることが目的だから、
全体を見渡せるような荒いものである必要がある。

逆に、荒い状態で作れないから、
プロットを最後まで書くことができないまである。
この、荒さという粒度を身に着けていないと、
プロットは書けない。
 
この荒さをどれくらいまでにすればいいかは、
かなり経験値がいると僕は思っている。
つまり、プロットを的確な荒さで書ける人は、
もう最後まで書ける条件を持っていることになる。
逆にいえば、
色々な荒さでプロットを書く練習をして、
最適な粒度でプロットを書けるような練習をするべきなのだ。

2行であらすじを書く練習。
400字であらすじをラストまで書く練習。
1500字で。
4000字で。

色々な粒度で書いてみることは練習になる。
ざっくりプロットの場合、1000〜2000字程度だろう。
詳しいプロットの場合、4000〜6000字程度かもしれない。

粒度を変えて、同じプロットを書き換える練習をすることは結構勉強になる。
名作の映画をひとつ選んで、
それぞれの文字数でプロットを書き下してみたまえ。
そうしたら、
何文字くらいでどういうことを書けばプロットになるのか、
わかると思う。
プロットは、結末まで書く。
だから結末までできていないものはプロットではない。


さて。
プロットで全体が見渡せるとき、
ひとつ気づくことがあるだろう。
「この物語は、全体として何をいおうとしているんだ?」だ。

ある事件が起き、主人公がそれを解決するための旅に出て、
最終的にいろいろあった結果、
それらが片付く。
そういう大きな一連の流れができているだろう。
だが、
「それにどういう意味があるんだ?」
に答えれるものになっていないならば、
プロットとは言えないと思う。

「正義が悪を倒したのだから、
これは正義はよい、といっているのである」
というのは一番よくあるパターンで、
これを勧善懲悪という。
それ以外にも、なんでもあり得る。

そしてこれは映画の話なので、
「〇〇は〇〇なのだ」なんて説明してしまってはおしまいだ。
ストーリーの構造で、テーマを暗示しなければならない。
ということは、プロットをみれば、
テーマを明示しなくても、
だいたいこういうことを言いたいのだな、
とわかるものになっていなければならない。


最初からこれは難しいので、
まずは、明示的に書き下してみることをお勧めする。

「主人公は旅の結果〇〇を倒して〇〇を得た。
このことは、
『〇〇は〇〇である』を示しているのだ」
という風にだ。

で、「ほんとに?」と問えばよい。

それが明示しなくても、暗示できているならそれでよし。
出来ていないならば、
もっとうまく示す方法はないのか、
プロットを練り直したほうがいいと思う。
設定を変えてもいいし、展開を変えてもいいし、
結末を変えてもいい。
とにかく、
『〇〇は〇〇なのだ』なんて言えるような、
何かしらを見つけなければならない。

それがおもしろい、おもしろくない、
世の中にインパクトがある、ない、
今これをいうべき、いうべきではない、
などを検討するべきなのだ。

今響くテーマである、今響かない、
などは同時代性を考えないといけない。
いつの世にも響くテーマである、ない、
などは永遠に残るかどうかと関係する。

変わったテーマか、いつものやつか、
でも変わってくる。

こうした、
全体とプロットの検討ができているものを、
「最後までつくってある」というのだと僕は思う。


単に、
事件が起きて、主人公がやってきて、
色んなことをやって、最終的に解決する、
だけを書いても、プロットにはならないのだ。

全体としてそれがどういう意味になっているのか、
何を暗示しているのか、
そのストーリーAを通じて、どういうことBが言えているのか、
を検討していないものは、
単なる事件解決しかできていないということなんだよね。

観客がほんとうに心にずしんと来るのは、
ストーリーAを見たあと、
これはBということだったのか、と理解したときだ。

そして、そのBを示すために、
もっともおもしろいAを選んでいる、
その巧妙さにうなるのである。

ここまでを、プロット段階でつくっておかないと、
僕は最後まで書けないと思う。

なぜなら、
「俺、何を書いているんだっけ?」と、
素に戻ることが長期的な執筆では、よくあることだからだ。

単に事件やディテールを書いているだけでは、
最後まで持たない。
結果、これってどういうこと?
というのがあるから、
それが最後まで書き続ける原動力になるのだ。


最後までつくれ。
最後までつくってから書け。

執筆というのは、その、すでにできているものを、
受肉するだけの作業になるだろう。
BがAで表現できていればいいのだから、
Bに落ちさえすれば、
Aはいくらでも遊べる。
その遊びの部分を、毎日の執筆で探せれば、
執筆も楽しいものだ。

だけど、そもそも全体ができていないと、
今書いていることが、
全体のどのパートを担っているのかわからないので、
正解がわからなくなってしまうことが多いね。

単なる思いつきの集合体になってしまって、
全体として力がなくなってしまう。

だから、最後まで書けなくなるんじゃないかと思う。



つまり、ふと我に返るんだろうな。
「これ、書く意味あるんだっけ?」って。

それに対して、
「これは〇〇は〇〇である、
ということをいおうとしている、
価値のある物語なのだ、
だから今書いているパートは、
その〇〇の役割の部分である、
そこがうまくできたら、全体はうまくいく」
という風に思えれば、
くじけずに前へ進める。

そのためには、それを自分で説明できないといけないわけ。


全体と部分の関係ができていないと、
つまりは最後までできていないということだ。
これを、適切な荒さで書けるか、
というのが、プロットであるということだ。

プロットはあらすじである、
なんて適当な説明は、我々には必要ない。
全体を見渡す設計図だ、
という風に考えるべきである。

設計図もできていない建築は完成しない。
それだけのことである。
(建築って、それが出来上がったあとの社会的意味まで、
考えたうえで設計するのだろうか?
よく知らないが、そのへんの建築はそんなの考えていない気がするなー。
サグラダファミリアは宗教的意味を考えているように思えるから、
意味のある建築物になるのだろう)
posted by おおおかとしひこ at 07:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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