昨日も一人でやりました。
新作を、最初から最後まで一気に、
何も見ずに架空の誰かに説明すること。
第一稿があがって、少し冷静になっていて、
しかもまだ第一稿を全シーン自分で再現できる、
という確信があるだけの忘れていない段階で、
やってみるとよい。
まったくこれを知らない人がそこにいると仮定して、
その人に全部を語るのだ。
頭から尻まで全部。
そしたら、矛盾とか、説明ははしょっていいところとか、
ここははしょれない大事なところだとか、
これがあれの伏線になっているから、
ここは丁寧に語るべきだとか、
あれとこれがつながっているとか、
そういうことが見えてくるだろう。
そして、「全体としてその感じ」のような、
全体を見終えたときの感覚を、
架空の人と共有できるはずだ。
それが、読後感である。
映画が終わって、
暗転してエンドロールに入り、
劇場が明るくなって、
現実に戻ったときの、
あの感じを、感覚として得られるよ。
あー、あれとあれがここで関係してくるのかー、とか、
主人公の人生とはなんだったんだろう、とか、
あいつの人生はあれでよかったのだろうか、とか、
あの時あれをやってればもっとましになったかなあ、とか、
人生と時間と色々な反芻がある時間。
それを、最初から最後まで、
一気に語ることで、
得ることができる。
これのいいところは、
話しながら判断ができるということ。
これは省略してもあとに関係ないからいいやとか、
矛盾があるからここでフォローしておこうとか、
ここはたっぷり語るぞ、とか、
架空の人の夢中になりぶりを想像しながら、
適宜語りの形を変更できることだ。
ということは、それがそのストーリーを語る、
最善の形ということになる。
そこで省略されていたシーンや描写は、
カットするべき対象かもしれない。
そこで矛盾をフォローしたのなら、
それは脚本上で解決するべきだ。
そこでたっぷり語る見せ場は、
もっとたっぷり見せるように書き直したほうがいいかもしれない。
ギャグで笑わせられた?
悲しいシーンでずーんってなった?
気持いいシーンで気持ちよくさせた?
そして、「おしまい」といったときに、
暗転してエンドロールになったときの、
あの「いい映画を見たときの感じ」が、
あったかな?
あー、いい話だったー、
あー、すごい話だったー、
あー、なんか元気が出たー、
あー、心にずしんと来たー、
なんでもいいよ。
その映画の種類によるだろう。
その感じが、狙いと一致しているか?
もっと〇〇にしたほうがいいんじゃないか?
などを感じるのに、
このエクササイズは最適だと思う。
なかなか全部を見終えたときの感覚を、
わからない、というのが、
長い長い映画脚本の問題だ。
絵でいうと、後ろに下がって全体を見る、
というのがとても困難なのだ。
だから、こうやって全体を見る方法は、
とても大事だ。
「頭から尻まで、架空の人に全部説明する」
以外の方法には、
「一か月くらい寝かせてまったく忘れた
(新作を書き始めているくらい、前のを忘れるとよい)
あとに、
メモを一切取らず一気読みをする」
がある。
どちらも僕はよく使う。
これは編集室でも同じで、
頭から尻まで、全部つながったときに、
「一回頭から尻まで全部見よう」という段階がある。
このときに、「全体としてみた感じ」
を、見るんだよね。
体験するといってもいいか。
映画は一種の体験である。
ある時間からある時間までの、
時間を借りることだ。
その時間をかけて体験したことを体験するには、
「語る」が一番わかりやすいと思う。
「読む」だと時間軸が絡まないからね。
語って、実時間を消費したほうがいい。
リアルタイム性があるからだ。
批判的な架空の人相手だとやりにくいだろう。
たとえば厳しい先輩とか、
プロデューサー相手と仮定すると、
緊張してのびのびできない。
「自分を好きだと思ってて、
なんでも笑ってくれる女の子」を仮定するとよい。
ただし、
「物語に詳しく、ちょっとでもしょうもないなら、
それは正直に言える頭のいい子」がいいな。
そんな聡明で、自分を好きな、
かわいい女子と、
2時間の映画デートをするのである。
自分の語りでね。
部屋でやろうな。変態なおっさんの所業だからな。
狙い通り夢中になれただろうか。
その狙いでよかったのか。
狙いは成功したのか、失敗したのか。
失敗したとしたらなぜか。
どうやったら成功するか。
もっと遠くを、高くを狙えるか。
そんな反省会を、そのあとにしよう。
反省会の方が長くなる。
そうしたら、
次の稿はどこを目指せばいいかが、
見えてくる。
あなたのストーリーはもっとよくなる。
その磨きをどうかけるかは、
それが今どう見えているかが問題だ。
2025年12月27日
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