2026年01月09日

総括・統合する力の喪失?(「ナイトフラワー」評2)

ちょっと気になったのが、
なんだか「感情を吐露する場面」が多くて、
行動が少なかったこと。

Twitter文化と同様、
「獣の鳴き声に反応する」だけになってて、
それを総括したり、統合する力が弱くなっているのでは、と思った。
以下ネタバレ。


たとえばさ、
弟が幼稚園で暴れて、
相手の子が失明したかもしれない、
という場面は胸に刺さり、
どうしたらええんや、
という絶望を示すにはかなりえぐくていいけれど、
「それが何になったんだっけ?」
というのは全然なかったね。

つまりスプレッドである。
「貧乏でやや精神薄弱な中卒シングルマザーの、
つらい日常」
というアレコレの一部であって、
そのカードが出そろったらおしまい、
みたいな。
とくにつながっていない、スペック紹介と同じやつ。

「これが全財産です」と、
役所に掛け合うが役所は対応できず、
「俺のほうがつらいわ」と声のデカイジジイに絡まれる、
みたいな場面もとても良いが、
「それが何だったんだっけ?」にはつながっていない。

薬の王に同じことをやる伏線になっているのかもしれないが、
多分あの主人公は、
どこででもあれをやるんじゃないか、
と気づいてしまうと、
じゃああの役所の場面なんだっんだっけ、
説明場面にしては長いし、
伏線としてはあのジジイや窓口の人は二度と出てこないし、
あってもなくてもいい場面じゃね?
と気づいてしまうよね。

金持ちの娘が死んで、
田中麗奈が化けるのはいいけれど、
それって全部まるっとなくても、
別に大きな話に影響はない。
だって田中麗奈は彼女たちの人生とまったく絡んでいないからだ。

「別々の人生が、銃でつながる」
というのは「バベル」だが、
あれはそれがテーマになっている、
どこにでも転がっている銃社会への反対がテーマだからだ。
だけど、
「まったく関係ない人生の人たちが、からむ」
は、この物語のテーマではない。

となると、田中麗奈のコーヒー淹れて、はい、
のエピソードはなんだったんだ、ってなるよね。
娘を失って初めて彼女は自我を取り戻したのだ、
という部分はいいけど、
全体と絡んでいるわけではない。
つまり彼女のサブテーマとメインテーマがずれている。
あるいは、無関係である。
(メインテーマがじゃあなに?と考えると、
そこも空虚だが)

刑事の尾行は無能だし(わざと?)、
とにかく世界全体が「脱出口がない」
ようにつくられているのはわかる。

だけど、
そんなところにバイオリンの才能なんて、
万が一、いやもっと少ない確率でガチャを引かないと、
脱出できそうにない、
というのはあまりもだと思った。

じゃりン子チエのような、おおらかな世界じゃないので、
救いがないのよね。
チエなら、なんだかんだいっても、
「幸せとは餃子のことや」って言いそうだもの。
旅行に行くことが幸せではなくて、
みんなで餃子をつくって腹いっぱい食べるラストになりそうだよな。


つまり、
場面場面の感情の表出は、
良く描けている。
これは役者の芝居力に支えられているとも思う。

でも、
それらをつなげて統合したときに、
一体何になるのか?が、計算されていない気がした。

で、それを非難せずに、
褒めている人が結構いるのが気になった、
というのが本題。

Twitterから引用する。
> 物語は予習せずに鑑賞、激泣きだった。
> 幸せって何だろう……子育てって何だろう……
> そんなことを深く思った、素晴らしい作品。
> 見れて良かった(ラスト、あれどゆこと?)

気になるのは最後の部分。
ラストがどういうことなのかで、
この作品の全体の統合は決まる。
それが結論になるはずだ。

ハッピーエンド(田中麗奈は娘を殺さなかった)ならば、
「つらいことがあるけれど、ラッキーにも脱出できる」になるし、
バッドエンド(月下美人は昼に咲かないからあれは幻想で、
実際は娘は死んでいたのだ)
ならば、
「誰も幸せにならない地獄」
というのが結論になる。

前者にするには根拠がなさすぎるし、
後者にするには救いがなさすぎる。
つまり、
どちらに解釈するにしても、
「これ、良作か?」って疑問が湧くのよね。

にも拘わらず、
「泣いた」とか「感動した」とかって、
なんで言えるのかが分らないんだよ。

それは、
そういったつらい場面に「同調出来た」
しか言っていないと思うんだよな。


同調出来たからいい作品かな?
途中気持ちよかったから、人生全体としては良かったかな?
僕は、そうではないと考えている。
つまり、作品を全体、統合されたものとして考えている。


でも最近、Twitter文化もあいまってさ、
感情の切れ端しか転がっていないような気がしているんだよね。

最近の子供さんで優秀な子は、
アニメや漫画を見たり、ゲームをする子なんだって。
ええっと思うと、
優秀じゃない子どもは、ショート動画しか見てなくて、
長いものを統合して見ることが出来ないらしい。

あーなるほど。
我々の世代的には、そんな統合は長編小説とか本の世界だった。
映画や漫画はインスタントで統合性を失うといわれたものだ。
それだけ時間は刻まれて、
意識も感情だけに刻まれているのかもしれない。
集中力が5分や3分単位でしか持たないんだろうね。

もっとも、Twitterで感想を見かけかたら、
感情の切れ端なのは当然かもしれないが。


そういう意味ではブログ感想など見たいなあ、
と思うんだけど、
宣伝ばかり引っかかって、
肝心のブログ的感想や考察や批評に引っかかりにくいのが、
ネットもむかつく存在になりつつあるなー、
という感じか。


点は、動物なら誰にでもある。
それらをつなぎ、線としてどうかを見るのが、
人生であり知性ではなかったか。

映画が線であり、全体であるから、
僕は映画が好きなのだが、
観客がもうそうでなかったら?
とちょっと恐ろしくなったのよね。


そういう意味で、
僕は全体や統合のことについて、
より注意して発信しないとやばいなあ、
などと思った次第。
posted by おおおかとしひこ at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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