2026年01月31日

物語は心の避難所

なぜ人は物語を見るのか。
楽しいから見る、見たいから見る、
つまり、娯楽として見る、というのがひとつの答え。
これはショーとしての役割。

僕はもう一つあり、そっちのほうが重要だと思うんだけど、
心の避難所としての役割。


なぜ物語にハッピーエンドが求められるのか?
なぜ物語に矛盾がないことや、リアリティが求められるのか?
なぜ主人公は死なないのか?
なぜテーマが必要なのか?

これらはすべて同じ答えで、説明することができる。
「世界はきちんとできていることを、
確認したいから」だと思う。

もし世界が理不尽で、ランダムで、
生きる価値などない、だったらどうだろう?
我々は絶望して、虚無的になり、
自殺したり悪いことをするだろう。

だがなぜ我々は希望があり、立ち直り、
自殺せずに正しいことをしようとするのだろう?
「世界はちゃんとできている」と信じているからではないだろうか?

でもそんなのを、
現実世界で確認することはあんまりない。
相変わらず会社は訳の分からないことを言ってるし、
日本はどんどんダメになりそうだし、
悪いことをして得しているやつが増えているような気がする。

だから、「世界はちゃんとしている」と、
再確認したい人が物語を見る、
という需要があると僕は思っている。
「そうだよ、世界は信頼に足り、
正しい者がむくわれて、秩序を取り戻せるんだ」
と信じたい人が物語を見て、
理不尽な世の中をただす方向に戻ってくれるから、
物語はあるのだと思っている。

もちろん、逆張りの物語はある。
必ずしも世界が幸せになるとは限らない、
やったもんがち、
ずるいやつが勝つ、
正直者はかっぱがれるだけ、
理屈はない、弱肉強食があるだけ、
意味がないから死ぬ、
などのダークな世界観の物語はあるだろう。

それは、逆張りだから意味があるだけだ。
現実よりむごい地獄を見せて、
ああ、現実はもっとましだ、と安心するためにある、
といってもよい。

つまり、
現実より秩序がある方向か、
現実より秩序がない方向かの、
ふたつが物語の役目であると僕は考えている。

それは、意図的でなければならない。

どちらにも所属しないのは、
たとえばメアリースーみたいな、私の話を聞いて、
私を認めて、みたいなやつだな。

世界は信じるに足るのか、現実よりひどくて信用ならないのか、
という軸に乗っかっていない。
だから、それを見ても、世界に対する考え方が整理できない。
だから、「それがなんなん?」って思うのみなんだよな。


世界はこのようなものである、
信じるに足るのだ、
というのはテーマそのものではない。
テーマはもっと別の、
○○は○○であるみたいなことだ。
しかしその世界がそのように理屈で三段論法できるだけの、
確固としたちゃんとした世界でなければ、
そうはならない。
つまり、それができる段階で、
世界はちゃんとしている、ということかが描かれたということだ。

だから、世界は信頼できるとか、
そんなデカイことを描く必要はない。
秩序があり、コントロールできる世界であればそれでいいと思う。

理科の実験に似ているね。
余計なノイズがない純粋な世界をつくり、
与えたことと生まれたものが、
エネルギー保存しながら、
かつ変化することをやるのが実験だ。

つまり物語とは実験室でやらない実験だ。
「世界はちゃんとしてる」と確認するための。


だから、世界がちゃんとしていない物語は、
「破綻している」と嫌われるのだね。

疲れた人たちだけが物語を見るのではない。
元気で破壊的な人も物語を見るだろう。
色んな立場や心持の人が物語を見る。
平均的に、人類はどうなればいいだろう?
世界は信じるに足る、ちゃんとしているものだよ、
というのがいいんじゃないかなあ。


あなたは物語を書いて何をしたいの?
楽しませたいだけ?
それとも、世界はきちんと機能することを、
確認させたいの?

後者が目的になってしまうと、
宗教映画になってしまう。
だから、後者は目的ではなくて、前者が目的なのだが、
結果後者になっているような、
完璧な世界が、
いい物語だと思うよ。


人は完璧を見たい。
神ではない人の、秩序ができている世界を、
次の秩序へ動かせるような、完璧な物語を。
posted by おおおかとしひこ at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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