今はゲームに紙の説明書ついてないんだってね。
せつないのう。
ファミコン時代、
僕はまず説明書を全部一通り読んでからやるタイプだった。
弟は逆で、
動かしながらやっていくタイプで、
分らないところだけあとで説明書を読む、というタイプだった。
これ、ストーリーの説明の仕方にも同じことが言えるのでは、
と思ったので。
説明が下手な人がいる。
それは、「全部説明しようとしているから」ではないか、
というのが僕の見立てだ。
あのことも説明しなきゃ、このことも説明しなきゃ、
と思って、事前に全部説明しておかないと、
気が済まなくなってしまうのではないかと思う。
それは聞くほうがめんどくさい。
ゲームをやりたい、という欲望を抑え込んで、
説明書を全部読むのはみんないやだ。
ゲームはその間待っててくれるが、
映画はそうではない。
どんどん進んでいく。
僕は、やりながらルールを覚えていくタイプが、
映画の説明だと思う。
最初に人生の全部を誰も教えてくれない。
生まれたとき、あるいはものごころついたころ、
「実は人生というものは〇〇である、
すべてこれからルールを教えてやるから、
そのルール内で勝利することを考えて一生を過ごせ」
と父親や神から説明を受けるわけではない。
学校に入ると、オリエンテーションをしてくれる。
こういうルールで生活してくださいと。
こんなものがあるほうがまれで、
人生のルールを教えてくれる人はいないのだ。
いまだに税金や手続きのことはよくわからない。
どうやって生きればいいかわからないまま生きている。
人生に勝利するやり方は誰も分っていない。
ただある状況で工夫するだけだ。
他の人から情報を仕入れて真似したり、
禁止されてすごすごと引きさがったり、
「じゃあアレはOKなのでは?」と調べたり、
調べたら実はこういうルールで動いていたのだ、
と分ったりする。
ストーリーも、それでいいんじゃないかと思う。
使わないルールは出さなくていいから、
余計なものは削ぎ落せるのが、
現実と違うところだ。
やりながらルールを覚え、うまく潜り抜け、
全ルールが分っていない状態でも勝利する。
人生とはそんなものではないだろうか。
全ルールを知り、ハックするというゲームでもあるまい。
ルールの穴を見つけたぞ、をしないといけないゲームでもあるまい。
ということは、やりながらルールが分っていったり、
なんか怒られて、
それは違反だと知っていったりすればいいだけのことだ。
幼少の頃の失敗が、
その後を支えるのではないか。
ペットの死は幼少期に悲しいが、
長じてから、大切な人の死を防ぐ事ができるのではないか。
ただストーリーは2時間しかないから、
幼少期のペットの死から描く事ができないだけだ。
説明が下手な人は、
全部を説明しようとして、
この「やりながらルールを覚えていく」というのを、
うまく表現できない人じゃないかと思う。
弟のようなタイプがストーリーを書くのがうまいとも思えない。
それでうまくやれなかった、説明書を先に全部読むタイプの俺のほうが、
たぶん弟のような人物を観察して、
そういうのを主人公にしてしまうことができると思う。
できるやつはなぜそれができるのか、
分っていないことが多い。
できないやつが、できるやつを観察して、
できる原理を抽出するほうが、
フィクションを書くのにうまく行くように思うね。
トラブルが起こる。
それがどういう感じで起こったのか調べて、
それを説明する。
対処する。
またトラブルが起こる。
それがどういう感じなのかをまた調べる。
そうしたら、最初には知らなかったことがあったことが分った。
そうやって、「知っていること」は、
徐々に増えていく。
そのほうが、「今知っておかないといけない量」を減らせる。
つまり、
進行が速くなり、テンポが上がるわけだ。
ためしに、説明なしで進めてみな。
トラブルが起こってから説明を追加してみると良い。
あとから説明聞くとまたトラブルになるから、
先にこんどは説明して、となると、
多少長い説明でも聞いてくれると思うけどね。
映像は止まらない。
でも説明している間は止まってしまう。
説明は映像と相性が悪いものだ。
だから、小出しにして停止を最小化するわけだね。
2026年02月01日
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