2026年03月12日

あらゆる娯楽は理性を麻痺させるためにある

とは言えまいか。


酒。音楽。ダンス。
これらは人間の強力な理性を麻痺させて、楽しむ遊びであると思う。

陶酔もそれに含もうか。
(陶酔が娯楽になるのなら、
ある種の演説や神の言葉を聞くことも娯楽に入ると思う。
陶酔すると理性が失われがちだよね)

酒があるから男女はあれこれが出来る。
酒なしで理性だけでセックスすることは難しいんじゃないか。
(もちろん、酒なしで雰囲気だけでいけることもあるが)
酒があるから多少判断が緩くなるからだし、
「酒が入っていたので」と酒のせいに出来ることも含まれると思う。
なんらかの理性的判断をオフにすることが、
娯楽の役割なんじゃないかということだ。

音楽やダンスもそうだろう。
まじめに理性で考えれば、
なぜそんなことをしているのか良く分からなくなる。
だが、理性のスイッチをオフれば、
ダンスやショーに身を任せていることは楽しいことだ。

物語はどうだろう?

理性で考えたらありえないことを、
あることだと思って想像する娯楽だ。
理性で考えつつも、
架空の世界で遊ぶような、
言い訳の出来るほどの理性の喪失を楽しむものだといえる。

つまり、あり得ないから娯楽にならないのではない。
理性を上手に奪ってくれる娯楽こそが、
上等な娯楽なのだと思う。

陶酔を引き出せるだろうか。
理性の喪失を引き出せるだろうか。
ストーリーにうっとりするとは、
どういう場面のことだろうか。

全能感を満たす瞬間だろうか。
事故承認欲求が満たされる瞬間だろうか。
歌やダンスシーンだろうか。
アクションシーンだろうか。
危機一髪を乗り越えたシーンだろうか。
世界を変えた瞬間だろうか。

色々あるけど、
一番強いのは、
弱点を克服して、世界を変える瞬間だと思う。
つまり、物語とは、
普通に理性で考えていたら、
「自分の弱点を克服して世界を変える」
なんてまったく出来ない人が、
理性を失って、それを味わう娯楽だといえないか?
ということだ。

酒に酔いたいときはどういうときだ?
クラブで踊りたいときはどういうときだ?
物語という娯楽に手を出すのはどういうときだ?

物語の摂取は、
酒に酔っていないのに酒に酔わせるようなものだ。
アルコールなどの物質がないのにやるってけっこうなハードルだよね。
そのために物語は一個大きな嘘をつくんだよ。
その嘘を信じる限りは、
酔うことが出来るようなものを用意するのだ。
つまり、物語のドラッグ成分とは、
嘘だということになる。


どういう設定ですか?
どういう事件ですか?
どういうキャラクターですか?
それは全部嘘である。
嘘であるが、嘘過ぎると、
理性が失われることを拒否するので、
今理性を失ってもいいかな、と思える、
もっともらしい流れをつくって、
嘘というドラッグを摂取させるのが、
物語の本質だといえまいか。

悪意があれば心理を誘導できるだろう。
事実、宗教というのはすべて物語形式である。
戦時中、プロパガンダに使われたのは映画であった。
(露宇戦争でも、結構な動画がSNSに投稿されている。
ニュースのふりをした、フェイクニュースプロパガンダである可能性がなくもない。
この戦争が終わったら検証されるべきことだけど、
だれか研究しているのだろうか)


悪意のないものを、娯楽扱いできるのではないか。
ただし、よくできた物語というのは、
深い人生のテーマを扱って、
人間や社会や人生の新たな面を発見させる、
思想を進化させる手段になりえるよ。


さて。
あなたはどうやって観客の理性をはぎ取るのか?
そういう詐欺師として自分の手段はなんだろう、
と自問自答してみよう。

真正直にリアルな世界のリアルなストーリーをやっても、
嘘というドラッグが足りないかもしれないよ。
posted by おおおかとしひこ at 07:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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