いっとき「すごい」と評判だったので見てみた。
うーん、全然。
地獄めぐりとしてはいいのかもだけど、
「だからなに?」ってなってしまう。
何よりラストが良くない。
これでテーマが決まるわけで、
事実上この物語はテーマを放棄していると思った。
事実をもとにした映画の弱点だと思う。
以下ネタバレします。
プロデューサーのインタビューをみたんだけど、
コロナ期に自殺した一人の女性の、
元麻薬中毒者の新聞記事を見て、
「映画にしたい」と思ったのだそうだ。
気持ちはわかる。
壮絶だし、葛藤がある。
「ふつう」の人とは違った、
見世物要素もある。
売春というスキャンダラスな場面も描けるだろう。
(実際、冒頭シーンしかないんだけどね)
麻薬中毒、厚生施設、しかしその刑事が実は、
というのは、「おもしろい要素」だ。
ばあさんが昔助けてくれたから、
介護の資格を取りたい、というのもよかった。
(物語的にはそれがアキレス腱になったんだけど)
後半、無理やり子供を押し付けられるの、
いる?
刑事が逮捕され、コロナになり、
あと一個絶望に落とすか、
という困難のハードルゲームがやってきた、
という無理やり感があったね。
じゃあどうすればよかったのか?
この映画に何を求めているのか?
全然分らないのよね。
貧困、売春、クスリ、厚生、
しかし信じられる刑事は逮捕、
何も信じられない、コロナで希望なし、
自殺。
「その人生はなんだったのか」という視点が抜け落ちている。
だから「分らない」になるんだと思う。
仮にこれが雑誌の記事ならば、
どういう見出しがついたのか。
「コロナが貧困女性の希望を断った」になるのか。
「地獄から地獄へ行った女性」になるのか。
「信じられる人が、一人でもいれば」になるのか。
「ある記者の後悔」になるのか。
その「視点」がなかったのよね。
なぜなら、タイトルが「あんのこと」だからだ。
つまり、
「こういう人がいたことを訴えたい」で終わってるわけ。
最初のプロデューサーの思い、
「こういう人がいたことを訴えたい」から、
一歩も抜け出していないんだよね。
映画たるものそこからさらに進んで、
「彼女の人生とは何だったのか、
彼女を取り巻く世界は何がだめだったのか」
にならなければ意味がない。
そう、「意味」をつくるものであるべきだと思う。
「訴えたい」というのは意味ではない。
状況でしかない。
その状況が、僕ら平凡に暮らしている大衆に、
どんな意味があるのか、ということなんだよね。
「こういう貧困があることを想像してください」じゃ足りなくて、
「義援金を送ろう」でもいいし、
「ダルク組織を援助する政治家に投票しよう」でもいいと思うんだよね。
僕は刑事の話が意味を持つべきだったと思う。
一人の女性を強姦したからなんだというのだ。
それで「ドン引き」で終わっているから、良く分らなくなっている。
「あんともやったのか(あるいはやるために近づいたのか)」を記者の稲垣は突き詰めていたが、
それの答えがなかったことが、
「なんだったのこれ?」に答えが出ていない。
だって施設には男もいたしね。(バイセクシャルでもいいんだけど)
たかが性欲のために、あんなに熱心にヨガとかやらないでしょ。
もっと効率のいい方法がある。
手を出した人は、たまたま美人でむらっと来たくらいで、
計画的なものではないでしょ。
もう少し掘りようがあったのに、
急に子供を預かる話になったので、
曖昧なまま進行したのが、物語の責任を放棄したな、と感じた。
つまり、これはドキュメントレベルで、
物語や寓話になっていないんだよね。
こんなしんどい人がいました、ね、しんどいでしょ?
で終わっているから問題なのだ。
こんな彼女でしたが、
救われた人が一人でもいました。
子供です。でも覚えてないでしょうね、
そんなもんですよ、世界は、という冷笑がテーマだろうか?
つまり見返りのない母性で世界はなんとかなっている、
みたいなことでもないだろう。
それと刑事の話が乖離するしね。
つまり、寓話である物語は、
これを消化して、こなれたものにするべきなんだよね。
刑事と子どもを押し付けた母親と、記者の話は、
どこかでリンクしてまとまり、
意味のあるものになるべきだ。
何も関係していない、ただの世界のカオスの表現であるならば、
それは世界はカオスであり、どうしようもない、
というのがテーマになってしまい、
そんなことは知っているので、
物語としてみる価値はないと僕は思う。
つまり、この映画は、
すぐれた再現ドキュメントであるが、
物語としては三流なんだよね。
いや、ドキュメントですら、
「社会の悪構造を暴く」などの目的があるから、
優れたドキュメントですらない。
せいぜい、「リアリティにあふれた、すぐれた再現ドラマ」で終わっている。
「そのドラマを見せてどうしたいの?」が抜け落ちている。
実話を基準とした物語は、
常にこの危険にさらされている。
これが素晴らしいからみんなに訴えたい、でもいい。
これが悲惨だからこうするべきなんだ、と訴えたい、でもいい。
「どうすればいいの?」と訴えられても、「知らんがな」ってなってしまう。
つまり、
「彼女を映画にしたい」と思ったプロデューサーの、
思いから一歩も出ていないんだよ。
「映画にしてどうしたいの?」がないのだよ。
「映画にしたよ、よかったね」じゃねえよな。
「映画にしたよ、もうかった、賞をとった」でもないでしょ。
「映画にして、彼女の人生にこういう意味があったとみんな知り、みんなの人生観を変えた」
までいかないと、映画にしたことになっていないと僕は思う。
「映画にしたい」と思ったプロデューサーは、
脚本の形になればそれでゴーを出すだろう。
「映画になる」と思ってしまうからね。
でも脚本の形になっているが、
映画の形にはなっていないことに、
脚本段階で気づけなかったことが、
この映画が映画になっていないことの証拠だと思う。
バッドエンド、鬱エンドは、
強烈な社会批判を含まなければならない。
刑事は信用できない、毒親はひどい、ダルクも信用できない、
コロナはひどい、麻薬も売春もろくなものではない、
と、批判しているわけではない。
「文句をいっているだけ」だ。
批判は改善案とセットであるべきで、
「足を踏まれて痛い」と言うだけでは文句で、
「そこからどいてくれ、半径1メートル以内に入らないような、
配慮をするべきである」な提案つきで、
初めて批判足りえると思う。
バッドエンドの強烈さでいえば、
永井豪「デビルマン」が古典だ。
(映画版などなかった、アニメはマイルドなヒーローもの。
原作こそ歴史に残る傑作)
人間の集団心理の怖さが頭から離れないよね。
「その集団真理に乗っからないようにしよう」と、
デビルマンを読んだ人は思う。
少なくとも、ヒステリーみたいな今の軍国主義に向かうような流れに、
乗っかるのはやめておこうと思うはずだ。
我々は美紀ちゃんを十字架の上に張り付けた愚衆にはならないぞと。
この映画は、「じゃあ俺らはどうしたらええんや?」がない。
「かわいそう」という共感で終わっていて、提案がないのだ。
ここから女さんを差別するが、
女さんがつくるものは共感はあるが提案がないことが多い。
一方、男さんがつくるものは提案があっても共感がないことが多い。
この映画は共感はあるが、提案がない。
だから解決がないのだ。
まるで女さんの話のようだ。オチがない。
これはドキュメントでも、物語でも、映画でもない。
ただの記録再現で、「全日本かわいそう選手権」でしかない。
あー、地獄を見た。
今の私たちはこれに比べればマシな人生だ、
それを確認するためだけのタブロイド記事だ。
それにしては本気でつくられすぎているのが、
ちぐはぐだと思えたんだよ。
だから「これはなんのためにあるの?」
って思ってしまった。
2026年02月09日
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