2026年02月10日

寓話

フィクションの物語はリアルではない。
そんなことはわかっている。

だけど映画というのは、本物の人がやるし、
映像だしで、リアルに勘違いさせる力がある。
だけど俯瞰してみれば、それは寓話である。


寓話を引いてみる。
wikiだと、
「比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、
それによって諭すことを意図した物語」
とある。

AIに聞いてみたら、
「動物や植物、無機物などを擬人化し、彼らの行動を通じて、
教訓や風刺、真理を伝える物語」
と出た。
まあ、大体は同じことを言っている。

擬人化が必ずしも必要とはいえないが、まあそこはいいだろう。
今はまだwikiの集合知がAIのLLMより勝っているね。


さて。
映画はリアルな人間を使って、
リアルな場所で起きる物語だが、
本物ではない。
シャシンを使っているだけで、
正体は寓話だと思うわけだ。

リアルな肉体を持つ俳優をつかった、
擬人化であるわけだ。

リアルな俳優だろうが、CGキャラクターだろうが、
アニメだろうが、石のコマ撮りだろうが、
それは擬人化になっているということだ。

あくまで、実体はフェイクのものを、
我々はその瞬間だけはほんものの人間として考えるわけだ。


で、それは寓話の前半で、
後半は、「諭す」ことである。

「教訓や風刺、真理を伝え」てもよい。

つまりテーマだ。


寓話のストーリーはわかった。
誰かが事件に巻き込まれ、行動で解決する。
仲間や敵が出てくることが多く、
コンフリクトを解決して、
全体の問題が解決される。

それだけでは寓話にならない。
それがなんらかの諭し、
つまり教訓や風刺や真理を伝えていなければ、
寓話にならず、
単なる「あったできごと」でしかないといううことだ。

教訓を伝えたいのか?
風刺を伝えたいのか?
(それは単なる皮肉や冷笑で終わりなのか?
改善や提案を含めた何かか?)
真理を伝えたいのか?

なんでもいい。

「それがなにか」が必要なのだ。


それがないものは映画と言えるか?

「あんのこと」を見てみるとよい。
僕はないものだと思えるので、
映画になっていないと思う。

たまたま同時期に見た、同じく河合優実主演の、
「ナミビアの砂漠」も同様だと思った。
なににもなっていない。

はい、こういうのがありました。
とても悲惨でした。
なんかこの人たちの人生に意味があったのかなあ。

それは映画ではない。
寓話になっていないからだ。
つまり、寓話として壊れている。
欠陥品だといえる。

寓話でない映画はおもしろいかな?
僕はおもしろくないと思う。

それを通して、何を言いたいんだ、がないからだ。

ただきれいなものを撮りました。
ただ汚いものを撮りました。
そのへんのスマホの写真と何が違うのだろう。


餓死しそうな赤ちゃんを狙うハゲタカの写真は、
強烈な反戦や貧困を伝えている。
それをもって、そういう悲惨な世の中にしているのを、
なんとか変えようぜ、という意思を感じる。

寓話とはつまり意思だ。
何かを伝えたいという意思を感じないものは、
ただ何かがあるだけなのだ。

ただ何かあるだけなら、
邪魔だと思ったらどければよい。
その程度だ。
ただし意思を持つ何物かならば、
うむ、まずはそれを聞こうか、となるはずだ。

それが良ければ賛同したり反対すればいいだけで、
意思のないものはただ排除しても文句は言えないのだ。


そして、Aを伝えるために、Aで表現するのは単なる訴えだが、
Bを使ってAを伝えるものを、芸術とよぶ。


あなたは寓話をつくっているのか?
それとも、ただの置物をつくっているのか?
posted by おおおかとしひこ at 07:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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