フィクションの物語はリアルではない。
そんなことはわかっている。
だけど映画というのは、本物の人がやるし、
映像だしで、リアルに勘違いさせる力がある。
だけど俯瞰してみれば、それは寓話である。
寓話を引いてみる。
wikiだと、
「比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、
それによって諭すことを意図した物語」
とある。
AIに聞いてみたら、
「動物や植物、無機物などを擬人化し、彼らの行動を通じて、
教訓や風刺、真理を伝える物語」
と出た。
まあ、大体は同じことを言っている。
擬人化が必ずしも必要とはいえないが、まあそこはいいだろう。
今はまだwikiの集合知がAIのLLMより勝っているね。
さて。
映画はリアルな人間を使って、
リアルな場所で起きる物語だが、
本物ではない。
シャシンを使っているだけで、
正体は寓話だと思うわけだ。
リアルな肉体を持つ俳優をつかった、
擬人化であるわけだ。
リアルな俳優だろうが、CGキャラクターだろうが、
アニメだろうが、石のコマ撮りだろうが、
それは擬人化になっているということだ。
あくまで、実体はフェイクのものを、
我々はその瞬間だけはほんものの人間として考えるわけだ。
で、それは寓話の前半で、
後半は、「諭す」ことである。
「教訓や風刺、真理を伝え」てもよい。
つまりテーマだ。
寓話のストーリーはわかった。
誰かが事件に巻き込まれ、行動で解決する。
仲間や敵が出てくることが多く、
コンフリクトを解決して、
全体の問題が解決される。
それだけでは寓話にならない。
それがなんらかの諭し、
つまり教訓や風刺や真理を伝えていなければ、
寓話にならず、
単なる「あったできごと」でしかないといううことだ。
教訓を伝えたいのか?
風刺を伝えたいのか?
(それは単なる皮肉や冷笑で終わりなのか?
改善や提案を含めた何かか?)
真理を伝えたいのか?
なんでもいい。
「それがなにか」が必要なのだ。
それがないものは映画と言えるか?
「あんのこと」を見てみるとよい。
僕はないものだと思えるので、
映画になっていないと思う。
たまたま同時期に見た、同じく河合優実主演の、
「ナミビアの砂漠」も同様だと思った。
なににもなっていない。
はい、こういうのがありました。
とても悲惨でした。
なんかこの人たちの人生に意味があったのかなあ。
それは映画ではない。
寓話になっていないからだ。
つまり、寓話として壊れている。
欠陥品だといえる。
寓話でない映画はおもしろいかな?
僕はおもしろくないと思う。
それを通して、何を言いたいんだ、がないからだ。
ただきれいなものを撮りました。
ただ汚いものを撮りました。
そのへんのスマホの写真と何が違うのだろう。
餓死しそうな赤ちゃんを狙うハゲタカの写真は、
強烈な反戦や貧困を伝えている。
それをもって、そういう悲惨な世の中にしているのを、
なんとか変えようぜ、という意思を感じる。
寓話とはつまり意思だ。
何かを伝えたいという意思を感じないものは、
ただ何かがあるだけなのだ。
ただ何かあるだけなら、
邪魔だと思ったらどければよい。
その程度だ。
ただし意思を持つ何物かならば、
うむ、まずはそれを聞こうか、となるはずだ。
それが良ければ賛同したり反対すればいいだけで、
意思のないものはただ排除しても文句は言えないのだ。
そして、Aを伝えるために、Aで表現するのは単なる訴えだが、
Bを使ってAを伝えるものを、芸術とよぶ。
あなたは寓話をつくっているのか?
それとも、ただの置物をつくっているのか?
2026年02月10日
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