2026年02月11日

「こんなものをつくりたい」のイメージに、時間軸はあるか

あるものを作りたくなったとしよう。
イメージや閃きとして現れるだろう。
まずそれをメモに取り、もっとイメージを強固に、詳細にしていくに違いない。
それは創作の第一歩であり、
幸せな瞬間である。

さて。
そこに時間軸はあるかい?


「私は何をつくりたいと思っているか?」
を、明らかにしようとしているわけだ。

それは時間軸を持たないものなのか、
持っているものなのか、ということ。


多分だけど、
多くの場合、時間軸を持たないものが閃くんじゃないかと思うんだよね。
彫像が頭の中に出てくるように、
ある静止したものが、出てきそうな気がするんだよ。
人物像とか、関係性とか、設定とか、
せいぜいシチュエーションとか。

これらは時間軸を持たないものだ。
だから彫像にたとえた。


彫像じゃない、時間軸を持つものとは?

フレーズ? それも時間軸というほどでもないよね。
○○な瞬間はすべて時間軸を持たない。

ということは、
○○から××への変化とか、
○○から××へ移り変わる瞬間とかが、
時間軸を持つものということだ。

好きだった人が変わり果ててがっかりするとか、
馬鹿にしていたやつが努力して変身するとか、
ある場所やシステムがキラキラしていたのに崩壊していくとか、
難題が解けたその原理とは、とか、
そういうことだ。

何かしらの時間軸=変化があることが、
映画になるかどうかの瀬戸際である。

つまり、
○○な人とか、○○なシチュエーションとか、
○○な設定を思いついた段階では、
まだ彫像が出来ただけだ。
「その彫像がどう動いてどうなるのか」までできて、
初めて映画のアイデアだと思う。

ここを失敗すると、
映画にならないと思うんだよな。



たまたま、
「大怪獣のあとしまつ」
「あんのこと」
という全然違った二本を見たんだけど、
どちらにも共通するものがあったんだよね。
それは、
「アイデアの核に時間軸が存在しない、
彫像アイデアに過ぎなかったこと」だと思ったわけ。

それじゃあ映画にはならないよ、
という話をしたい。

両方のネタバレに触れるので、
嫌な人はここでおしまい。






「大怪獣のあとしまつ」のコアアイデアは何か。
多分第一歩は、
「浜辺に打ち上げられたクジラの死体の処理、どうしてんの?
それが怪獣だとしたら、そのてんやわんや、おもしろくね?」
だと思うんだ。

それで「大怪獣の死体片付けコメディ」というコアが生まれたと思われる。

ただし、それはジャンルという彫像に過ぎない。
時間軸がないわけ。

本編がどうだったか忘れたので、
仮に、
「死体処理班として、警察と保健所がいがみあう」
に発展させたとしよう。
でもまだ時間軸を持っていない。
「いがみあう」という状況しかないからだ。
「いがみあった結果、保健所が勝つ」でもいいし、
「いがみあった結果、両方投げ出して、
結局米軍が尻を拭く」でもいいし、
「いがみあった結果、国民が立ち上がり、ボランティア組織がやる」でもいいと思う。
どのパターンでも社会風刺は可能そうだね。
とにかく、
その骨、時間軸の中心に何があるのか、
決めなければ、
アイデアとして不十分ということだ。

仮にボランティア案を進めるとしたら、
どういういがみ合いがあるのかとか、
どういうキャラがいるのかとか、
考えなければならない。
事件や展開、結末について、
もう少し考えるべきだろう。
このようにして、発展が行われるわけだ。

この映画は、
最初のアイデア、「死体片付けの際のてんやわんやコメディ」から、
一歩も抜け出ていなかった。
なんなら、面白かったのは、
担当大臣たちの下ネタだけだったね。
コメディというからには、押し付け合いがコメディになるとか、
そういうことだろうに。


「あんのこと」はどうだろう。
コアアイデアは、
「あんのことを描きたい」だ。

時間軸は一見あるように見える。
毒親の元で育ち、
中学も行かずに売春して麻薬中毒になり、
刑事にダルクに行くように誘われ、
仕事も見つかって人生が好転するが、
刑事はダルクの女をレイプしたかどで捕まり、
コロナで仕事を失い、
実家に帰ったらまた地獄に逆戻りで、
麻薬に手を出してしまい、
失望して自殺する、
という。

でもこれがアイデアの核にはなっていない。
核は、「あんが自殺する」だけだ。
なぜ? どうして? を描いているだけで、
「あんという女性を描こう」が目的になってしまっている。
アイデアはあるよ。
「ばあさんがコロナっぽいんだ、助けてくれ」かなあ。
でもそれくらいしか、
ほんとうに彼女が、心からやったことってないんだよね。

背骨は何だったのか、
それが何の意味になったのかが、
全然ないんだよな。
つまり、
コアが「あんのこと」だからだね。

彼女を描きたいのは分ったよ。
でもそれが、
どういう時間的なアイデアがあったのか、
がないんだよな。

最初から自殺することが決まっているんだとしたら、
それにどういう意味がある?
ただ自殺するのを見てずーんとなるだけ?
その自殺を止められなかった人に、
トラウマを残そう?
それで社会を批判したことになる?
などの、
その先の視界が全然なかったんだよね。

だから僕は、この映画のコアに、
時間軸を持ったものがなかったと思う。
「あんのこと」というタイトルがそのまんまそれを示している。

彼女を描こう、それだけ。
その不幸な女を、
今来ている河合優実でやろう、
ということでしかない。
全部点を集めただけなんだよ。
線になっていない。



どちらも、
プロデューサー主導なのが気になった。
「大怪獣のあとしまつ」を金かけてやろう、
と判断したのはプロデューサーだし、
「あんのこと」を映画にしようと最初に思ったのは、
プロデューサーだった。
プロデューサー全般を馬鹿にするわけではないが、
プロデューサーって、
こういう見世物を点で考えがち。

そういう彫像を広場に持ってきたら、
物珍しさに人々が集まるだろう、
という発想だ。

彫像として客を呼べるなら、
それだけで呼べるかもしれない。
広瀬すずのヌードとかなら、
彫像としていいかもね。
でも映画は、そういうことじゃない。
物語である以上、
時間軸があり、それに意味があるわけ。

このアイデアに、
時間軸的な意味があるか?
を検討されているか、
ということが重要だと思う。

プロデューサーが仮に、
彫像見世物のようなことを考えていたとしても、
我々脚本家は、
時間軸を持つものとしてコアアイデアを考えるべきだ。

「大怪獣のあとしまつ」は面白いじゃない、
巨大怪獣が足上げて死んでるんだよ、
クジラみたいに腐敗が進んで爆発するんだ、
ダムに発破かけて放水で海へ流すんだ、
は、すべて彫像のアイデアだ。
しかもコメディのアイデアじゃない。

「あんのこと」のあんはかわいそうな女だ、
は時間軸を持っていない。
コアアイデアに時間軸がない。
一度よくなって、それから悲惨なことになっていくだけだからね。

こういう展開をして、
こういう結果になり、
それは全体としてこういう意味となるだろう、
というのが予測できていない状態での、
点のアイデアでしかない。

ここに、脚本家が、線のコアをつくれなかったことが、
この二本の失敗の根拠だと思う。


映画は見世物である。
そして映画は物語である。

見世物のアイデアは、
ぶっちゃけ頭の弱い人でも判断できる。
しかし物語のアイデアは、
頭が良くないと判断できない。
少なくとも、
「大怪獣のあとしまつ」と「あんのこと」のプロデューサーは、
馬鹿だと思う。
(馬鹿でも仕事がデキる人がいる。
ならば脚本家は頭のいい切れ者の参謀になるべきだ)


コアアイデアに時間軸を通せ。
そしてその時間軸が、
どのような意味を最後にもたらすのかを考えろ。

それが出来ていないのは、
見世物の彫像でしかなくて、
物語としての出来になっていないということだ。


人は見世物に集まる。
でもそれって5分か10分見たら終わりよ。
美術館で1つの絵の前に2時間いるかい?
全員を2時間そこに縛り付けるからには、
線で楽しませないといけないんだよ。
posted by おおおかとしひこ at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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