2026年03月29日

ストーリーは博物学ではない

博物学というジャンルがある。
世の中のものをたくさん集めて、どのジャンルに分類されるか、
を研究する学問だ。

人間は、コレクションする本能があるように思う。
集めて、分類すると、それだけで楽しい本能があるように思える。

でもそれは、ストーリーではない。


あるシチュエーションが好きだから、それを集める。
ある展開が好きだから、それを集める。
ある芸能人が好きだから、その出演作品を集める。
そうやって、いろいろな作品をコレクションする人はいると思う。
でもそれは、ストーリーの楽しみ方とは異なる。
それは点を楽しんでいるだけだからだ。

ストーリーの楽しみ方は本質的にはそれとは異なる。
もちろん、点として楽しんでも構わないが、
それはすべてではないということだ。

ストーリーを点としてしか楽しんだことがない人が、
うっかりストーリーを書いてしまうと、
点のストーリーしか書けなくて困ることになる。

おもしろげなシチュエーションやキャラクターは浮かぶが、
おもしろい中盤やうなるような展開や、
驚くべきどんでん返しや、
全体を通した感動や爆笑や、人間のおかしさやいとおしさについては、
書くことができない。

それは博物学としてストーリーをみているからで、
ストーリーを流れという線でみていないからだ。

では、分類やコレクションではなく、
線としてみるストーリーとはどのようなものか。
これまでさんざん議論してきたが、
事件があり、解決があり、
その間のコンフリクトによる展開があり、
変化があり、
終わったら全体として意味があるものである。

でも要素が多いので、
ものすごくはしょると、
変化がある(それが楽しめる)ものが線、
ないものが点ということはいえそう。

つまり、博物学とは変化のない点を集めることをいい、
線をコレクションしたり分類したりすることは難しいのではないだろうか。
それは、たぶん、人間の認識そのものの問題で、
線を認識できなくて、
点として止めて認識しているからだと思う。

博物館には、死んだ蝶がピン留めしてあるイメージがある。
博物館には死んだものしかない。
生きてるものを集めた場所は動物園などという。

「ある人のことを考える」とき、
時間を止めて認識するはずだ。
本来その人は時間の流れの途中にいて、
変化しつつあるものなのだが、
脳内でその人を扱うときは、
静止して、変化しないものとして考えるわけだ。


点Pは動かずに静止して座標を持つものだ。
「動く点P」がネタになるのは、
点なのに動くなよ、ということだと思う。

逆に、動かない点ならば、
PQRSTUXYZ...と、たくさん集められるんじゃないかしら。
これらがぜんぶ動きまくったら、把握できないものね。


この物語はA、B、そしてCを描くものである、
というのは、ストーリーとして間違ったとらえかただ。
Aを描いたストーリーを集める、
というのも間違ったとらえかただ。
XからYに変化したものを集める、ならば、
まだストーリーを線として扱っている。

しかし、そういうものを人間は認識しづらいので、
ついついXを扱ったもの、Yを扱ったもの、
としてとらえてしまうのだと思う。

で、それだけだとややこしいから、
「ジャンル」というこれまた静止した形式で分類してしまう。


ストーリーを書くということは、
変化を描くということだ。
私たちは絵描きよりも、
試験管に液体をたらす人に近い。
やじろべえや独楽よりも、
うねうねした坂道に近い。
posted by おおおかとしひこ at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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