誰もに愛され、大人気の人は、たぶん創作をしない。
こんなめんどくさいこと、
一人で孤独にこつこつしなければならないことを、
やっている暇がない。
創作をする人は、暇な人である。
創作をする人は、孤独な人である。
創作をする人は、好かれていない人である。
だから、メアリースーに陥る。
これは魔道なのだ。
創作の中では、好かれる人を描くべきである。
好かれる人がヒーローヒロインになるからだ。
主人公は好かれる人になるべきだ。
誰もに愛される、明るい人だからこそ、
太陽のようにみんなを惹きつけるのだ。
だが、作者は好かれていないため、
そんな人を描くことができない。
自分がそうじゃないからだ。
だから僕は他人を描け、とアドバイスする。
それを知らないと、
間違って自分を主人公にする過ちを犯してしまう。
なぜなら、自分は好かれていないので、
創作世界で好かれるという代償行為をしてしまうからだ。
そして自分は好かれていないのにも関わらず、
なぜか好かれるというキャラクターを生み出してしまう。
好かれる理由を描かないのに、なぜか好かれるキャラクターだ。
これをメアリースーという。
人が人を好きになるには、理由がある。
それを描く実力がないのに、結果だけを描きたがる。
それがメアリースーだ。
なぜなら自分の願望の投影だからだ。
メアリースーの原因には、
自分の哀しさがあることを知ろう。
好かれていないモンスターが、
好かれようとしてより醜い世界を生み出している、
地獄のような状況がメアリースーというモンスターなのだ。
私たち創作する者は、
その哀しさに向き合わなければならない。
もし他人のメアリースーをみたら、
速やかに葬り、
世界を浄化しなくてはならない。
その醜さは表に出るべき美しさではないぞと。
もちろん、その醜さを自覚的に描き、
醜さの頂点になるような芸術はあると思う。
それは醜さにおいて美しいので、それはよい。
だけど、真の醜悪さとは、
自覚しないで醜いこととである。
平凡な醜さである。
平凡は醜く、醜さは平凡なのだ。
私たちは好かれていない。
だが、それを創作世界で代償したら、
もっと好かれなくなる。
醜さがより醜くなるからだ。
好かれたくて代償して、より醜くなるという業を背負っているのだ。
そこまで自覚したら、
反転しなさい。
好かれる人を描きなさい。
なぜその人は好かれるのだろう?
観察しなさい。
実在の人をモデルにしてもいいし、理想の人を創作してもよい。
まずプラス面を描きなさい。
でもプラスだけの人はいなくて、
その人の魅力はマイナス面から来ることもある。
プラスとマイナスの両方がそろって、
初めて人の魅力になることのほうが多いだろう。
子供のころは、かけっこが速いだけで好きになったものだ。
そんなことだろうか?
大人になって好きになるのは、
もっと人間的な何かだろうか?
異性だと目が眩むから、同性をまず考えよう。
好きであこがれる人だけを主人公にしなくてもよい。
こいつ根性あるから認めよう、ということがあるよね。
そういう認めるわ、こいつなら、ということだってある。
いろんな好きがあってよい。
そういう「好かれ方の創作をする」ことが、
創作だと思ってもよい。
メアリースーはそれを全部とっぱらっている。
だから醜い。
太陽のような好かれ方もある。
月のような好かれ方もある。
私たちは好かれていない。
だけど、好かれる人を描くことはできる。
2026年03月30日
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