2026年03月30日

創作の前提:私は好かれていない

誰もに愛され、大人気の人は、たぶん創作をしない。
こんなめんどくさいこと、
一人で孤独にこつこつしなければならないことを、
やっている暇がない。

創作をする人は、暇な人である。
創作をする人は、孤独な人である。
創作をする人は、好かれていない人である。

だから、メアリースーに陥る。
これは魔道なのだ。


創作の中では、好かれる人を描くべきである。
好かれる人がヒーローヒロインになるからだ。
主人公は好かれる人になるべきだ。
誰もに愛される、明るい人だからこそ、
太陽のようにみんなを惹きつけるのだ。

だが、作者は好かれていないため、
そんな人を描くことができない。
自分がそうじゃないからだ。

だから僕は他人を描け、とアドバイスする。
それを知らないと、
間違って自分を主人公にする過ちを犯してしまう。

なぜなら、自分は好かれていないので、
創作世界で好かれるという代償行為をしてしまうからだ。

そして自分は好かれていないのにも関わらず、
なぜか好かれるというキャラクターを生み出してしまう。
好かれる理由を描かないのに、なぜか好かれるキャラクターだ。

これをメアリースーという。


人が人を好きになるには、理由がある。
それを描く実力がないのに、結果だけを描きたがる。
それがメアリースーだ。
なぜなら自分の願望の投影だからだ。

メアリースーの原因には、
自分の哀しさがあることを知ろう。

好かれていないモンスターが、
好かれようとしてより醜い世界を生み出している、
地獄のような状況がメアリースーというモンスターなのだ。

私たち創作する者は、
その哀しさに向き合わなければならない。


もし他人のメアリースーをみたら、
速やかに葬り、
世界を浄化しなくてはならない。
その醜さは表に出るべき美しさではないぞと。

もちろん、その醜さを自覚的に描き、
醜さの頂点になるような芸術はあると思う。
それは醜さにおいて美しいので、それはよい。
だけど、真の醜悪さとは、
自覚しないで醜いこととである。
平凡な醜さである。

平凡は醜く、醜さは平凡なのだ。



私たちは好かれていない。
だが、それを創作世界で代償したら、
もっと好かれなくなる。
醜さがより醜くなるからだ。
好かれたくて代償して、より醜くなるという業を背負っているのだ。


そこまで自覚したら、
反転しなさい。

好かれる人を描きなさい。
なぜその人は好かれるのだろう?
観察しなさい。
実在の人をモデルにしてもいいし、理想の人を創作してもよい。
まずプラス面を描きなさい。
でもプラスだけの人はいなくて、
その人の魅力はマイナス面から来ることもある。
プラスとマイナスの両方がそろって、
初めて人の魅力になることのほうが多いだろう。

子供のころは、かけっこが速いだけで好きになったものだ。
そんなことだろうか?
大人になって好きになるのは、
もっと人間的な何かだろうか?

異性だと目が眩むから、同性をまず考えよう。

好きであこがれる人だけを主人公にしなくてもよい。
こいつ根性あるから認めよう、ということがあるよね。
そういう認めるわ、こいつなら、ということだってある。
いろんな好きがあってよい。

そういう「好かれ方の創作をする」ことが、
創作だと思ってもよい。

メアリースーはそれを全部とっぱらっている。
だから醜い。

太陽のような好かれ方もある。
月のような好かれ方もある。

私たちは好かれていない。
だけど、好かれる人を描くことはできる。
posted by おおおかとしひこ at 07:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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