完全に聖人の人はいない。
人間はどこか醜く、欠点を抱えているものだ。
同様に完全に悪の人もいない。
どこかしら良いところがある。
人間は、完全な善と完全な悪の間にいる。
物語というのは、そのさまを、両極端から描くものである。
どういうことかというと、
悪の側を悪役にやらせて、
善の側を主人公にやらせるわけだ。
そして、善が悪に勝つさまを見せて、
悪をひとつ克服した、というカタルシスを与えるわけである。
見た目は悪役が主人公に倒されるのだが、
意味としては、
自分の中の悪の部分がひとつ善によって浄化された、
となるわけだね。
さて。
つまり悪役は、どこか知らない世界の、知らない悪ではない。
良く知った、自分の中の醜い部分である。
稀代の悪い人ではない。
長年自分の中にいる、親しい悪なのだ。
なぜ作家が悪役が書けるのか、というと、
自分の中の悪を観察しているからだ。
つまり、我々は、我々の醜さに向き合う必要がある。
たとえば「嘘をつく」という悪がある。
なぜそんなことを言うかというと、保身のためである。
ばれない嘘で保身するために、嘘をつく。
ということは、土壇場で嘘をつくやつがいるわけだ。
それをどう悪として物語にかますと面白いかを考えるわけ。
悪役が、土壇場で嘘をついて保身して、
主人公が陥れられれば、
ターニングポイントになるわけだね。
実際僕はそんなやつの保身の嘘で、結構な事件に巻き込まれたことがある。
一生許さないし、倒す方法はないので、黙って汚名を受け続けるしかないわけだが。
立場が上のやつが、より立場の上のやつに対して、
保身のために僕を人身御供にすることがある、
というのは人生において貴重な経験だね。
そして、その男の悪だけではなく、
自分と似た保身のための嘘を考えるわけだ。
どのようなシチュエーションならば、
自分がそういう嘘をつくか、ということをね。
つまり、「悪の感情移入」について考えるわけ。
「わかる、私もそのような立場になったら、
ばれない嘘なら保身のためについてしまうに違いない」
と考えるといい。
そうしたら、観客も、悪への感情移入をすることだろう。
もしこれがうまくいき、
主人公サイドの善にも感情移入がうまくいけば、
主人公が悪を倒すストーリーをみて、
自分の中の小さな悪が浄化されたように感じるはずだ。
(保身のための嘘を倒す話は小さくて、おもしろいかは分らないが)
つまり、悪も「あれは私である」と思わせなければ、
ほんとうには面白くならない。
結果的に悪になったが、
少し条件が違えば、善だったのかもしれない、
というのでもよい。
そうした、悪に関する考え方を、善と同等に考えて、
はじめて主人公と敵対者を考えたことになると思う。
我々は自らの悪、醜さを、鏡を見る必要がある。
その醜さを増幅して、
つくりものに変えていく。
なぜ悪役が人気が出るのか?
その悪に感情移入してしまうからだ。
自分にもそんな醜さがあるぞと。
2026年03月31日
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