2026年03月31日

我々は我々の醜さと戦わなければならない

完全に聖人の人はいない。
人間はどこか醜く、欠点を抱えているものだ。
同様に完全に悪の人もいない。
どこかしら良いところがある。
人間は、完全な善と完全な悪の間にいる。

物語というのは、そのさまを、両極端から描くものである。


どういうことかというと、
悪の側を悪役にやらせて、
善の側を主人公にやらせるわけだ。
そして、善が悪に勝つさまを見せて、
悪をひとつ克服した、というカタルシスを与えるわけである。

見た目は悪役が主人公に倒されるのだが、
意味としては、
自分の中の悪の部分がひとつ善によって浄化された、
となるわけだね。


さて。
つまり悪役は、どこか知らない世界の、知らない悪ではない。
良く知った、自分の中の醜い部分である。
稀代の悪い人ではない。
長年自分の中にいる、親しい悪なのだ。

なぜ作家が悪役が書けるのか、というと、
自分の中の悪を観察しているからだ。

つまり、我々は、我々の醜さに向き合う必要がある。


たとえば「嘘をつく」という悪がある。
なぜそんなことを言うかというと、保身のためである。
ばれない嘘で保身するために、嘘をつく。
ということは、土壇場で嘘をつくやつがいるわけだ。
それをどう悪として物語にかますと面白いかを考えるわけ。
悪役が、土壇場で嘘をついて保身して、
主人公が陥れられれば、
ターニングポイントになるわけだね。

実際僕はそんなやつの保身の嘘で、結構な事件に巻き込まれたことがある。
一生許さないし、倒す方法はないので、黙って汚名を受け続けるしかないわけだが。
立場が上のやつが、より立場の上のやつに対して、
保身のために僕を人身御供にすることがある、
というのは人生において貴重な経験だね。

そして、その男の悪だけではなく、
自分と似た保身のための嘘を考えるわけだ。
どのようなシチュエーションならば、
自分がそういう嘘をつくか、ということをね。

つまり、「悪の感情移入」について考えるわけ。
「わかる、私もそのような立場になったら、
ばれない嘘なら保身のためについてしまうに違いない」
と考えるといい。
そうしたら、観客も、悪への感情移入をすることだろう。

もしこれがうまくいき、
主人公サイドの善にも感情移入がうまくいけば、
主人公が悪を倒すストーリーをみて、
自分の中の小さな悪が浄化されたように感じるはずだ。
(保身のための嘘を倒す話は小さくて、おもしろいかは分らないが)

つまり、悪も「あれは私である」と思わせなければ、
ほんとうには面白くならない。
結果的に悪になったが、
少し条件が違えば、善だったのかもしれない、
というのでもよい。

そうした、悪に関する考え方を、善と同等に考えて、
はじめて主人公と敵対者を考えたことになると思う。


我々は自らの悪、醜さを、鏡を見る必要がある。
その醜さを増幅して、
つくりものに変えていく。
なぜ悪役が人気が出るのか?
その悪に感情移入してしまうからだ。
自分にもそんな醜さがあるぞと。
posted by おおおかとしひこ at 08:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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