2026年03月01日

小説と映画の差を考えるのに格好の素材(小説「時尼に関する覚え書」評)

映画「僕は昨日の君と、明日デートする」の、
パクリ元といえるSF小説。

アイデアには著作権はなく、
ディテールに著作権が存在する、
という現行法ではパクリではないが、
このものすごいアイデアを堂々とパクるとは、
なかなかの剛の者よ。

映画では不可能な表現があって興味深かった。

以下ネタバレ込みで。


小説にあって映画にないもの。
年齢がどんどん変わっていくこと。

映画は2週間限定として、
若い時の同じ役者に演じさせている。

年を取った状態も同じ役者のメイク違いなので、
せいぜい30代。
あとは幼少期だけを子役でまかない、
都合2体のボディーだけでなんとかしている。

だが小説はその制限を受けないので、
様々な年齢を出す事が可能だ。
なのでとてもバラエティ豊かな時代感があり、
ゆっくりとした進行になっている。

蜜月期の6年間を真ん中にして、
その前後の方がむしろ長く描写されているのが、
なかなか興味深かった。


ふたつめは、より客観的に、
「いったい何が起こってるのかを地の文で説明できること」だ。

映画ではセリフと黒板に書いた図、
フラッシュバックなどで説明していた、
そときびとの概念が、
小説ではひたすらに説明が可能で、
この時間軸で一体何が起こってるのか、
よりわかりやすかった。
24:00を境に1日が入れ替わる、なんてご都合設定もあったね。
(映画では門限24:00という設定をつけて、
その姿を見せないていになっている)

あー、このへんの三人称でもない、
別軸の「説明しよう」ができるのが、
小説の強いところだね。

映画で説明シーンはせいぜい2〜3分でないと飽きられる、
つまり原稿用紙2〜3枚、800〜1200字、
という制限を考えると、
これは相当な強みだなー。


あと面白い仕掛けがあって、
指輪が円環する不思議さ(どこから来たもの?
というタイムパラドックス的なもの)、
自分の息子が父親、というオチがあり、
彼女の肖像画が父親のものとして出てくるオチがある。

この小道具の使い方のうまさが、
小説的だなーって思った。


しかし映画版よ、
画家の設定丸パクリで、
肖像画のくだりをクライマックス部に持ってくるなど、
大胆なパクリアレンジをしたものだなあ。

話ついてんのかな。
してねえんだろうなあ。


都合3種のそときびとの話を見たわけだけど、
断トツに最初の小説がよくできている。

祖父殺しのパラドクスみたいな、
円環のパラドクスが生まれているのが、
とてもSF的だ。

このSF味を、映画はだいぶ感情に流したんだなー。


結局あの映画は何が言いたかったのかよくわからない。
この小説だと、円環の指輪が閉じた、
と締められているのが、
「時間とは何か」というセンス・オブ・ワンダーを考えさせて、
格の違いが出ていると思った。

この物語は、映画にできないね。
理由は上の全てだ。
小説のすごいところは、自由に読み返せるところだけど、
映画は一度走り始めたら止まらずに最後まで走り切り、
消えてしまう。
映画の方が儚いんだな。


とても不思議な物語だ。
同工異曲を許さない、
徹底した面白い話であった。


映画は時の流れと変化を描く。
小説は状態を端から順番に描く。
船の乗り方が全然違うなーって感じ。
posted by おおおかとしひこ at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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