2026年03月06日

主語が大きい、小さい

最近ネットでよく聞く「主語が大きい」というやつ。
分かりやすい漫画を貼っておく。
HCkFu5-aMAAGwr8.jpg

https://x.com/kyouen2/status/2029159469545079222?s=20
で、老害は主語が大きい、という事が言いたいのは分ったが、
逆に、若者は主語が小さすぎるから、
孤立しているのかもしれない。


主語が大きい、というのはつまり、
「私は大きな群れの一員」ということだ。
「私がこう思っている」を「みんながこう思っている」と置き換えたりすることだ。
私の感じ方と群れの感じ方は同じだから、
私=群れということになる。

つまり、主語が大きいということは、
人類補完計画が完成していると言える。
集合的無意識の一部になっているということだ。
皆が同じことを感じ、判断する、
ということを言っている。

逆に、若者は主語が小さいのかしら。
つまり私と他人は違うものであり、
人は人、自分は自分、と自我が確立していると。

その代わり、他人との共通点がないから、
相対的に群れより主語が小さくなり、
群れから孤立していると。

群れは全部が正義であり、ひとつの世界である。
孤立は正義が乱立し、世界は分割されている。

若者の自信のなさは、
こうした孤立、(相対的)自我の小ささ、
他人と自分の境界線の明確化によって、
もたらされているとも言えるのではないか。

そんなに違う個性ばかりになったら、
共通点がなく、会話も進まないだろうに。
まあだから若者は恋愛を避け始めている。



そんなに自我が小さくなってしまった人たちの間で、
物語は効力があるのかな?
もちろん、
カウンセラーがその人の為だけにつくった物語や、
自分自身の人生は、その人の物語になるだろう。
でもそれって、マスで流すべき、
マスのための映画的物語じゃないよね。

個人的ストーリーは小さい。
主語が小さいわけだ。


そして、感情移入理論でいうと、
そんな小さな主語でも構わなくて、
問題は、
そのストーリーが「誰もがこれは俺だ」と思えるようになっているか、
ということが鍵だ。

個人の小さな物語なのに、
どんな人でも当てはまる、
共通の問題や課題や悩みや解決を描いているから、
マスで流すべき物語になるのだ。


つまり、
主語が大きいものは、群れとして見るべき娯楽になる。
これは一般にメジャーという。
アメリカ映画は、
「地球を英雄が救う」みたいな、主語の大きな物語が多いと思う。

主語が小さいものには二種類ある。

群れとは関係のない、
個人でしか当てはまらないもの。
これはマイナーと呼ばれるもので、
ニッチなものでもある。

もうひとつは、
小さい主語で、個人的な話がモチーフなのだが、
実は誰でも経験することであったり、
感情移入してしまうような、
共通の何かがあるようなものだ。

これは一見小さい主語のように見えて、
実は大きな主語、つまり群れの共通の話を描いているから、
実は大きなストーリーである。


若者はどんどん主語が小さくなっているのだろうか。
地球を救ったり、世界を救うことに興味がなくなっているのだろうか。
世の中をよくすることに興味はなくて、
自分の小さな世界さえ守れればいいのだろうか。

若者というデカイ主語だと良く分らなくなるかもしれない。
ただ、群れとしての傾向は知っておくべきだ。


そんな小さな主語たちでも、
大きな主語になる瞬間があると思う。
自分の人生を動かすときだろう。

小さな主語なのだが、
実質大きな主語になる物語のときに、
参考にされたい。
posted by おおおかとしひこ at 07:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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