2026年03月08日

企画書には「言わなくても分ること」を書け

どういうこと?


企画書を書こう。
いつかビジネスのために、つくることになるだろう。

あなたは脚本家であり、
ストーリーの専門家なので、
「脚本読めば分るだろ」と思っている。

すべてはパーツに分解されていて、
ストーリーによって再構築されて、
あなたは美しいテーマとストーリーの融合を成し遂げた、
パズルの完成者だ。

だが、企画書を読む人は、
「脚本家ではない」。
すなわち、「脚本家以外の人が読む」のである。

もっというと、
「脚本を読めない人が読む」
「脚本をまだ読んでいない人が読む」
「脚本を読んで、中身が把握できなかった人が読む」
「脚本を読んで解釈したものがあってるかどうか、確認するために読む」
「脚本を読んでもパーツわけやテーマが把握できない人が読む」
ためにあると言ってもよい。

つまり、勉強本体に対しての、
参考書が企画書だと思うといい。


勉強ができる人は参考書はいらない。
教科書を愚直にやり、そのまま東大に入れる。

しかし多くの人は教科書だけじゃ難しくて、
より簡単に解説して、
部分的には理解することができる、参考書を読むわけだ。
なんなら、
頭の悪い人用の参考書というものがあって、
「どうしてそうなるかは理解していなくてもいいから、
結果だけ覚えておけば使えるぞ」
というやつだってあるじゃない?

そんなの東大くんからしたら、
あほか、ちゃんと勉強しろよ、
と思ってバカにしてしまうが、
ほとんどの人(東大に行かないレベルの人は99%いる)は、
参考書が必要なのだ。


脚本だから読めば分ると思うじゃん?
そうじゃないんだよ。
「99%の人は脚本が読めない」
という前提に立ってみるといいよ。

そうしたら、企画書の作り方は変わって来る。


つまり、参考書になるのがいいわけ。

極端に言うと、脚本と企画書、
「同じ事を2回書いたものをつくる」のだ。
そして脚本という教科書はそのオリジナルで、
企画書という参考書では、
ストーリーの肝になる部分を抽出したり、
それがなんで面白いのかを解説したり、
それがなんで今の客に受けるのかを解説するといいわけ。

しかも、難しいことを言わずに簡単な言葉でね。
難しい言葉を使っている参考書はない。
教科書が難しいから、
簡単な言葉に言い換えているからだね。

若い人はもう知らないと思うが、
かつてはテレビ放送の映画は解説者が必ずいて、
見る前と見た後に解説をしてくれた。
淀川長治、水野晴雄、高島忠夫。
彼らが映画を簡単にしてくれた。
彼らが参考書の著者たちだったのだ。

それを、企画書でやるといいんだよ。
これはどういう映画なのか。
これはどういう物語なのか。
これは結局何を言いたいものなのか。
そしてそれは、なぜ受けるのか。

「読めばわかる」じゃなくて、
「まるで読んでいないのに読んだかのように理解する」
ことを解説するといいんだよ。

仮に「エイリアン」を見ていなくても、
「この映画は一見ホラーだけど、
閉塞したニューヨークの文化から脱出したい人たちにとって、
とても重要な感覚を映像化している」
とか解説するようなものだ。
(ほんとかは知らない。今適当につくった)
「なるほど、だから受けるのか」
と、理屈をつけてあげるのだ。


企画書は、
脚本の読めないビジネスマンが読むものである。

だから脚本からストーリーの本質を抽出できない人が、
同様に本質を分っていない人に対して、
「エイリアンはホラーの形をした、
現代人の閉塞感を映画にした傑作なんですよ」
と伝言ゲームをしていくためにあるんだ。
(エイリアンがそうかは知らない。今適当につくった)

そうすると、
本質を読み取れない人々同士で、
「これは何か」が共有できる。
人が集まって、「これを○○なビジネスにしよう」
と動きだせるわけ。

神輿は複数の人で担ぐものであるが、
その人たちの心が一つになっていないと担ぐことはできない。
あっちに行ったりこっちに行ったりするからね。
神輿が安定して進んでいくためには、
人々が「この神輿を担いでいる」
という共通認識が必要だ。

それを、脚本ではなくて、企画書でつくるのだ。

多少の嘘や省略は構わない。
神輿を担ぎやすくするためだ。

神輿を担いでいるときに、400字のあらすじは必要ない。
10〜20文字以内程度の、「これはなにか」があればよい。
「この辺の地域の神様であり、これから街を一周して元に戻るのである」とか、
「現代の閉塞感をSFホラーにしたもの」
ということである。

本来は各自が脚本から読み取り、
各自で働くべきだとは思うが、
それを時短しようぜ、というのが企画書だ。

教科書を全部やらなくていいから、
参考書のこのページだけ覚えとけ、
ということになっているわけだ。


教科書、脚本を書いた人からは、
哀しいことである。
苦労して神の脚本をつくったんだから、
これを前に議論しようぜ、と思うのは当然だ。
だが、99%は教科書だけで東大に行かない。

もちろん、頭のいい人は映画業界にいる。
そういう人に企画書を見せても意味がなくて、
「よし、読んどくよ」で通じると思う。
しかし、石を投げて東大出身に当たる確率程度だと思うとよい。


ということは、企画書は必ず必要になるだろう。


企画書は参考書だ。
短く、キャッチーにまとめよう。
本質をするどく描き、
ネタバレも辞さず、
「これはブームになるぞ」という確信を得られるものにしよう。

あるいは、「これは面白くなさそう」というビジネスマンに対して、
「この企画書をみろよ、ここが面白ポイントだろ」
とビジネスマンが説得に使えるような道具として、
企画書を書いておこう。

「企画書と脚本が一致していない、乖離している」
と指摘できる人は、東大出身者に出会える確率だと思うとよい。


じゃあ嘘を書いても大丈夫なの?
本質をよりよく見せてもばれない?
それは、あなたの良心で判断してくれ。

僕は「そうして私たちはプールに金魚を」の企画書は最低だと思っている。
この映画は女子高生4人の話で、
最終的に学校のプールに金魚を放ってその美しい絵を楽しもう、
ということなのだが、本編中でその場面が描かれることはないんだよね。
つまりゴドーは来ない「ゴドーを待ちながら」よりも最低で、
「やったことにして省略している」という、
タイトル詐欺になっているわけ。

にも関わらず、伝説の企画書は、
プールに女子高生が金魚を放った絵一枚に、
数文書き添えているだけなんだよ。

詐欺もいいところだ。
東京オリンピックを福島復興オリンピックとプレゼンしているのと同じか、
それ以上の詐欺だ。

あなたはあなたの書いたものを、
嘘をついてでも実現したいのか、
それともそれはそれとして利用するのか。
あなたが映画をなんだと思っているかが、
その企画書に出る。
騙して金を出させれば勝ちなのかは、あなたが決めなさない。
僕は、ずっと売春した女みたいな気持ちになると思う。


ということで、
正しい参考書をつくろう。
まじめな参考書でもいいし、
おもしろげに見える参考書でもいいし、
エモい参考書でもいい。

教科書だけじゃわからなかった人にむけて、
勉強は難しくないよ、
このポイントだけ抑えてれば、
誰にでも使えるものだよ、
というものをつくろうぜ。

ときどき、映画の内容の本質をきちんととらえようとして、
抽象的で難しい話をしてしまう人がいる。
「ロッキーは閉塞した時代に、
個人の自由を希求した作品である」などのようにね。
あなたは映画解説者ではないし、評論家でもない。
参考書を作る人だ。

参考書を作る人は「熱いボクシングでスカッとする」
くらいまでロッキーを単純化できる。
もちろんもっといい参考書は、
「負け犬がボクシングで自分を証明する」
くらいまでは書くだろう。


本屋に行って、自分がどんな参考書を手に取るか、
色んな人がどんな参考書をまず見るか、
比較してみよう。

勉強しなくても勉強した錯覚を覚えさせるのは、
なんだろう?
教科書だけで東大に行ける人と仕事をするのがベストだけど、
そうはいかない。
うまく本質を抽出して、
そして平易な、楽しげな、すごげな、ポイントにまとめるのだ。

言葉を選ばずにいうと、
企画書とは、バカでもわかる脚本の副読本なのだ。

脚本を企画して、仕上げることとは、
まったく別の技能が必要なのだ。


日本人は察する文化である。
脚本とは、内容を読んでテーマを察するものである。
「言わなくても分るだろ」ということだ。

だけど、その、「言わなくても分ること」を、
わざわざ言うのが、
企画書だと思うといいよ。

なんなら、日本文化を理解していない外国人に向けた、
と極端に思うと割り切れるかな。
どうせ最近は金持ってる資本は外国だしな。
posted by おおおかとしひこ at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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