長崎尚志が脚本書いたってのを聞いて、
見てみた。
うーん落ちがない。
彼の長編漫画を短編で見た、という感じだなー。
映画脚本の能力はないっぽいな。
以下ネタバレで。
長崎尚志といえば有名な漫画編集者で、
原作を数多く手掛け、
漫画の影武者的な作家で知られている。
浦沢直樹と組んだ「MASTERキートン」「MONSTER」、
「20世紀少年」「PLUTO」あたりが代表作か。
その他Wikiを見ると、
さまざまな原作を見ることができる。
僕が読んだことのあるのは浦沢のものだけなので、
以下その印象で語る。
何度かこのブログでも取り上げているが、
彼の原作は、
「どんどん盛り上がっていくのはいいが、
ラストがなんだったんだよあれ」
になるパターンがすごく多いんだよね。
逆にいうと、
ラストシーンがめっちゃ決まって、
なるほど完成した、
というのは見たことがないと言える。
また、特徴としては、
「複数の場面が、時間的連続を持たずに、
切り替えて描かれる」という点だ。
クリストファー・ノーランも同様の特徴があり、
複数の時代を同時進行させる、
「オッペンハイマー」なんてその真骨頂だった。
どちらにも言える特徴は、
「見ている途中はめちゃくちゃ面白くて、
どんどん場面も変わるので新鮮なまま見続けられるのだが、
結局最後に俯瞰したときに、
それがなんだったんだ?ってわからなくなるもの」
だと思うんだよね。
サイバラなんかは「いつまでたっても混ざらない交響楽」と評していた。
つまり、本来期待されるラストは、
「すべての伏線が一堂に会して、
一体これが何だったのかが明らかになり、
腑に落ちたものになる」ということだ。
たとえば、たいして面白くないが、
「ミッドサマー」では、
住人たちのよそよそしい歓迎の理由が、
ラスト近辺になって明らかになるよね。
たいして面白くないけど、それがあることでなるほどと腑に落ちるわけよ。
「これはこういう映画だったのだ」と。
「MONSTER」のラストは、
ヨハンはベッドからいなくなり、行方不明になっておしまい。
「21世紀少年」のラストは、
犯人はわかったけど、それがそんな大それた事件を起こすほどか?
って拍子抜け。
途中まではとても面白いのに、
一体それがなんだったの?って毎回なっちゃう。
だからビリーバットが始まったときも、
「またそれだろ?」って思って読んでいないんだよね。
もうだまされないぞと。
さて。この映画だ。
最初のぬるっとした漫画家アシスタントから始まって、
殺人事件に巻き込まれるオープニングはよくて、
途中もなかなか面白い展開だったよ。
小栗旬が途中で殺されるのも、
なかなか驚いた。
最終回を使って、身を切っておびき寄せる作戦もいいし、
「4人家族」という双子も、なかなか良かった。
でもそれだけ。
ラストシーン、なんだっけ。
裁判のシーンで、
犯人が「僕は誰?」っておしまいなんだよな。
いや、それは俺たちが一番知りたかったことだろと。
それを明らかにするための裁判なんじゃないのかよと。
犯人は特殊な宗教で育ち、
社会性がなく、漫画の中を現実と思うようになり、
二人で作品を完成させようと思いました、
までは分るが、
「で、それがなんだったんだっけ?」が、
抜け落ちている。
犯人はまあこれでいいのかもしれないが、
主人公サイドが何もないのが、
多分だめなんだよな。
「僕は才能がないんです」からの、
嘘をついて、彼をモデルにした、
いわば嘘ヒットをつくったはいいよ。
でもその最終回は、
彼自身の漫画であった、という風にはなっていないんだよな。
紙で書くのはちょっと燃えたけど、それだけで終わっしまった。
折り重なった二人の体が、漫画と逆になっているのは、
二人の役割が入れ替わったからだ、
という暗喩なんだろうが、
はて、何が入れ替わったんだっけ?
が、全然分らないので、
なんだっけこれ?ってなってしまうんだよね。
なんか、もう少し長かった話を、
脚本段階か編集で切った感じがする。
小栗旬は途中で死ぬ予定じゃなかったけど、
なんかここで死んだらおもしろい、
みたいにした気がするんだよなー。
ラスト、入院してる病院で、
小栗旬の落書きを見つけた中村獅童、目覚めた主人公、
というので何を意味しているんだか分らないよ。
「事件が終わった」でしかないじゃんね。
それがこの物語のテーマを示しているとはとても思えない。
たまさかシンクロした二人が、
二人で一つであったものが分れた、
という感じでしかなくて、
だからそれがなんなのか、が分らないんだよね。
ちなみに僕は中盤まで、
「どうせこれ、主人公の別人格なんでしょ」って思ってみていた。
でも急に妊娠した奥さんにも見えていると分って、
急にジャンルが変わった気がしたんだよね。
ずっと主人公は疲れて忙しくてやせていたから、
殺人鬼人格に乗っ取られる話なんじゃないの?
って思っていたんだよね。
それが「キャラクター」って意味だなと。
あれー、ここで話が折れたぞ、
って感覚があった。
ターニングポイントじゃなくて、
折れた、って感じ。
前後がつながっていないぞ、って感じ。
本屋の監視カメラにも、映っていない、
というアイデアじゃないかと思ったんだよ。
ガード下の飲み屋だって、
ご主人は殺人鬼を見ていないていだったし、
当初はそういう脚本だったんじゃないか、
って思ったのよ。
一応別の役者が演じているけど、
鏡を見たら、菅田将暉じゃなくて、別の人が映っている、
みたいなやつ。
その鏡を正確にデッサンすると漫画になる的なね。
そしたら急に奥さんにも見えていることになってしまって、
あれー、って感じ。
じゃあ単なる売れなかった嘘つき漫画家vs変人、
って話じゃんってね。
そしたら、それの社会的意味ってなんだ、とか、
単なる劇場殺人じゃんとか、
その程度になっちゃう。
劇場型殺人って80年代くらいのモチーフでしょ。
古すぎる。
Xやインスタで愉快殺人、芸術殺人をする、
というふうになぜならないのだろう。
それも詰まんない、ってなったとしたら、
「じゃあなにか」を考えないといけないはずだ。
そうした、
「全然詰めていないストーリー」に見えた。
普通、
ラストから逆算してつくるものだ。
テーマがあって、そこへ到達するようにつくるものだ。
それは二時間という冒険が、
ちょうどそこに着地すると気持ちいいからだ。
そんな風なものを最初からつくってなくて、
長編漫画で引き続けたはいいが、
結局何にもなっていない、
という彼の漫画の縮小版に見えたね。
漫画はさ、最終巻が出るまでに、
どれだけ売れればいいか、という商売でもある。
ということは、
終わらせ方が微妙でも、
それまでが売れればいいんだ、という価値観が、ないとは言えないと思う。
最終回なんて作者のエゴで十分という感じ?
でもそれは最終巻の時間が、連載全体の時間に対して、
きわめて短いからだろうね。
ラストの意味合いが違うんじゃないか。
それに対して、
映画というのはどうやったって2時間で終わる芸術だ。
その時間の配分を、
良く分っていないのでは?って感じる。
映画はラストシーンですべてが決まる。
その決定した感じが、
読後感、その物語の価値のすべてを決めるのだ。
それを理解していない人がつくった、
通俗物語にすぎないと感じたね。
菅田将暉、Fukaseのリールにはなっている。
しかしそれだけだな。
すべてはタイトルに現れている。
「キャラクター」。
どう考えても二重人格の話になるでしょ。
そうじゃない「キャラクター」ってなんの話をしているの?
現代の世の中ではキャラクターが大事で、
それを維持するためならばなんでもやるのだ、
という話でもなかったし、
なんの「キャラクター」の話なのか、
全然分らんよね。
川村元気というプロデューサーは、
当代一の稼ぎ頭かもしれないが、
実力のない中途半端者だ。
長崎尚志を担ぎ上げたところまではおもしろかったが、
本質を見誤ったか?
単なるおしゃれサスペンス消費だけだったのだろうか。
2026年03月08日
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