2026年03月08日

落ちてない(「キャラクター」評)

長崎尚志が脚本書いたってのを聞いて、
見てみた。
うーん落ちがない。

彼の長編漫画を短編で見た、という感じだなー。
映画脚本の能力はないっぽいな。
以下ネタバレで。


長崎尚志といえば有名な漫画編集者で、
原作を数多く手掛け、
漫画の影武者的な作家で知られている。

浦沢直樹と組んだ「MASTERキートン」「MONSTER」、
「20世紀少年」「PLUTO」あたりが代表作か。
その他Wikiを見ると、
さまざまな原作を見ることができる。
僕が読んだことのあるのは浦沢のものだけなので、
以下その印象で語る。

何度かこのブログでも取り上げているが、
彼の原作は、
「どんどん盛り上がっていくのはいいが、
ラストがなんだったんだよあれ」
になるパターンがすごく多いんだよね。
逆にいうと、
ラストシーンがめっちゃ決まって、
なるほど完成した、
というのは見たことがないと言える。

また、特徴としては、
「複数の場面が、時間的連続を持たずに、
切り替えて描かれる」という点だ。
クリストファー・ノーランも同様の特徴があり、
複数の時代を同時進行させる、
「オッペンハイマー」なんてその真骨頂だった。

どちらにも言える特徴は、
「見ている途中はめちゃくちゃ面白くて、
どんどん場面も変わるので新鮮なまま見続けられるのだが、
結局最後に俯瞰したときに、
それがなんだったんだ?ってわからなくなるもの」
だと思うんだよね。
サイバラなんかは「いつまでたっても混ざらない交響楽」と評していた。

つまり、本来期待されるラストは、
「すべての伏線が一堂に会して、
一体これが何だったのかが明らかになり、
腑に落ちたものになる」ということだ。

たとえば、たいして面白くないが、
「ミッドサマー」では、
住人たちのよそよそしい歓迎の理由が、
ラスト近辺になって明らかになるよね。
たいして面白くないけど、それがあることでなるほどと腑に落ちるわけよ。
「これはこういう映画だったのだ」と。

「MONSTER」のラストは、
ヨハンはベッドからいなくなり、行方不明になっておしまい。
「21世紀少年」のラストは、
犯人はわかったけど、それがそんな大それた事件を起こすほどか?
って拍子抜け。

途中まではとても面白いのに、
一体それがなんだったの?って毎回なっちゃう。
だからビリーバットが始まったときも、
「またそれだろ?」って思って読んでいないんだよね。
もうだまされないぞと。


さて。この映画だ。
最初のぬるっとした漫画家アシスタントから始まって、
殺人事件に巻き込まれるオープニングはよくて、
途中もなかなか面白い展開だったよ。

小栗旬が途中で殺されるのも、
なかなか驚いた。
最終回を使って、身を切っておびき寄せる作戦もいいし、
「4人家族」という双子も、なかなか良かった。

でもそれだけ。
ラストシーン、なんだっけ。
裁判のシーンで、
犯人が「僕は誰?」っておしまいなんだよな。
いや、それは俺たちが一番知りたかったことだろと。
それを明らかにするための裁判なんじゃないのかよと。

犯人は特殊な宗教で育ち、
社会性がなく、漫画の中を現実と思うようになり、
二人で作品を完成させようと思いました、
までは分るが、
「で、それがなんだったんだっけ?」が、
抜け落ちている。

犯人はまあこれでいいのかもしれないが、
主人公サイドが何もないのが、
多分だめなんだよな。
「僕は才能がないんです」からの、
嘘をついて、彼をモデルにした、
いわば嘘ヒットをつくったはいいよ。
でもその最終回は、
彼自身の漫画であった、という風にはなっていないんだよな。
紙で書くのはちょっと燃えたけど、それだけで終わっしまった。

折り重なった二人の体が、漫画と逆になっているのは、
二人の役割が入れ替わったからだ、
という暗喩なんだろうが、
はて、何が入れ替わったんだっけ?
が、全然分らないので、
なんだっけこれ?ってなってしまうんだよね。

なんか、もう少し長かった話を、
脚本段階か編集で切った感じがする。
小栗旬は途中で死ぬ予定じゃなかったけど、
なんかここで死んだらおもしろい、
みたいにした気がするんだよなー。

ラスト、入院してる病院で、
小栗旬の落書きを見つけた中村獅童、目覚めた主人公、
というので何を意味しているんだか分らないよ。
「事件が終わった」でしかないじゃんね。
それがこの物語のテーマを示しているとはとても思えない。

たまさかシンクロした二人が、
二人で一つであったものが分れた、
という感じでしかなくて、
だからそれがなんなのか、が分らないんだよね。

ちなみに僕は中盤まで、
「どうせこれ、主人公の別人格なんでしょ」って思ってみていた。
でも急に妊娠した奥さんにも見えていると分って、
急にジャンルが変わった気がしたんだよね。
ずっと主人公は疲れて忙しくてやせていたから、
殺人鬼人格に乗っ取られる話なんじゃないの?
って思っていたんだよね。
それが「キャラクター」って意味だなと。

あれー、ここで話が折れたぞ、
って感覚があった。
ターニングポイントじゃなくて、
折れた、って感じ。
前後がつながっていないぞ、って感じ。

本屋の監視カメラにも、映っていない、
というアイデアじゃないかと思ったんだよ。

ガード下の飲み屋だって、
ご主人は殺人鬼を見ていないていだったし、
当初はそういう脚本だったんじゃないか、
って思ったのよ。

一応別の役者が演じているけど、
鏡を見たら、菅田将暉じゃなくて、別の人が映っている、
みたいなやつ。
その鏡を正確にデッサンすると漫画になる的なね。

そしたら急に奥さんにも見えていることになってしまって、
あれー、って感じ。
じゃあ単なる売れなかった嘘つき漫画家vs変人、
って話じゃんってね。

そしたら、それの社会的意味ってなんだ、とか、
単なる劇場殺人じゃんとか、
その程度になっちゃう。
劇場型殺人って80年代くらいのモチーフでしょ。
古すぎる。

Xやインスタで愉快殺人、芸術殺人をする、
というふうになぜならないのだろう。
それも詰まんない、ってなったとしたら、
「じゃあなにか」を考えないといけないはずだ。

そうした、
「全然詰めていないストーリー」に見えた。


普通、
ラストから逆算してつくるものだ。
テーマがあって、そこへ到達するようにつくるものだ。
それは二時間という冒険が、
ちょうどそこに着地すると気持ちいいからだ。

そんな風なものを最初からつくってなくて、
長編漫画で引き続けたはいいが、
結局何にもなっていない、
という彼の漫画の縮小版に見えたね。


漫画はさ、最終巻が出るまでに、
どれだけ売れればいいか、という商売でもある。
ということは、
終わらせ方が微妙でも、
それまでが売れればいいんだ、という価値観が、ないとは言えないと思う。
最終回なんて作者のエゴで十分という感じ?

でもそれは最終巻の時間が、連載全体の時間に対して、
きわめて短いからだろうね。
ラストの意味合いが違うんじゃないか。
それに対して、
映画というのはどうやったって2時間で終わる芸術だ。
その時間の配分を、
良く分っていないのでは?って感じる。

映画はラストシーンですべてが決まる。
その決定した感じが、
読後感、その物語の価値のすべてを決めるのだ。

それを理解していない人がつくった、
通俗物語にすぎないと感じたね。

菅田将暉、Fukaseのリールにはなっている。
しかしそれだけだな。



すべてはタイトルに現れている。
「キャラクター」。
どう考えても二重人格の話になるでしょ。
そうじゃない「キャラクター」ってなんの話をしているの?

現代の世の中ではキャラクターが大事で、
それを維持するためならばなんでもやるのだ、
という話でもなかったし、
なんの「キャラクター」の話なのか、
全然分らんよね。



川村元気というプロデューサーは、
当代一の稼ぎ頭かもしれないが、
実力のない中途半端者だ。

長崎尚志を担ぎ上げたところまではおもしろかったが、
本質を見誤ったか?
単なるおしゃれサスペンス消費だけだったのだろうか。
posted by おおおかとしひこ at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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