2026年04月13日

芝居の上手下手と自然

芝居の上手下手にはいろんな要素があるが、
その中に「自然に見える」「見えない」
というのがあると思う。

これは何が違うのだろうか。


単純に、
「その人が本気で言っているように、
見えるか見えないか」だとは思う。

役者の中に知らない言葉があったら、
ぎこちなくしか言えないだろう。
「忖度する」とか「疲弊する」
という言葉を知らなかったら、
その言葉に対して不自然な発音や間になってしまう。

極端なのは関西弁か。
それを普段使っていない人が、
簡単に発声できる言語じゃないよね。

言葉はひとつの感情でもある。
「むかつく」しか知らない人は、
「怒りをあらわにする」
「怒りを腹にため込む」感情を表現できないんじゃないだろうか。

つまり、役者にとって、自然か自然じゃないかを決めるのは、
その言葉や感情を普段使っているか、
と関係していると思う。

メソッド法はまさにその考え方を使った演技法で、
「仮にその台本のことを経験していなかったとしても、
それに近い、自分の経験や言葉や感情を思い出し、
まるでそのように演じる」
というやり方だ。
演技の相似形を、自分の経験の中から探してくるわけだね。

そうすると、その役者にとっては自然になる、
ということだ。
知らない言葉でも、知ってる言葉のように言えるわけだ。

それを経験したことがないと演じられない、
というタイプの人は、
ある職業ものをやるときに、
その職業をしばらくやってみることもある。
その職業特有の考え方や空気を、
自分の中に取り込むわけだね。


さて。
これはすでにある脚本を演じる場合の話だけど、
脚本家はどうなんだい、ということだ。

そもそも使い慣れていない言葉や感情を使って、
無理やり書いたものは、
役者が不自然な芝居になるんじゃないか?
ってことだ。

仮に撮影現場の場面だとして、
「ちょっとそれバミッといて」
「了解です」
「パーマ持ってる?」
「白すか、黒すか」
「黒に決まってんだろ。床見てから言えよ」
なんて会話が自然に出てくるのなら、
その人は撮影現場に長くいた人だろう、
とすぐにわかるだろう。

バミるが何かを知らない人は自然に演じられないだろうし、
パーマがすぐ出てこないだろうし、
白か黒か聞くことが出来るのは、
バミリがナチュラルに出来る人の話だ。

こんな風に、
自分の世界に近いならば、
自分にとってあまりにも自然のように書けるだろう。
しかし実際には、自分の知らない世界を書くので、
その世界で当たり前にある感情や場面や言葉を、
不自然に書いている可能性があるということだ。

専門用語はまだ分りやすい。
問題は、もっと親しい世界だろう。

たとえば悲しいときに、
人はどういう言葉を吐くだろう。
「わたし、かなしい」なんて絶対に言わないよね。
それは人間の自然を分っていない、
下手な台本だ。

こんな台本を渡されたら、
どんな名役者でも、
うまく「わたし、かなしい」と自然に言えないと思うよ。
悲しくて、それを表明することで、
何か得があるからそうする、
とかの裏の何かがない限り、
そんな不自然なセリフは言わないものだ。

でもこれが、外国語を習ってる人のセリフだったら自然だ。
そしてそのセリフは、ぎこちないほど自然になる。


その、何がナチュラルかを、
脚本家が分っていないなら、
不自然な台本になってしまうわけだね。

この役者芝居が下手だなあ、
という裏には、
そもそも脚本がセリフが下手、
というのが隠れていることがある。

多くの人はそれを分離できないから、
役者のせいになってしまうだろうね。
この人芝居下手、というふうに、
短絡的にきまってしまうだろう。

逆に芝居の上手い役者は、
下手な脚本でも、
まるで自分の言葉のように言う技がある。
だからいつでも自然に見えてしまい、
脚本家は自分の書いたセリフが下手だと自覚できないんだよね。



自然な芝居をしよう、
自然な芝居をつくろう、
などと言っても、何が自然かなんて、
実際のリアルをたくさん体験しないと分らない。
取材をたくさんするのは、そういうわけだね。

その世界によくある、
感情、空気、考え方なんてのを、
学ぶために取材するんだよな。
posted by おおおかとしひこ at 07:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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