芝居の上手下手にはいろんな要素があるが、
その中に「自然に見える」「見えない」
というのがあると思う。
これは何が違うのだろうか。
単純に、
「その人が本気で言っているように、
見えるか見えないか」だとは思う。
役者の中に知らない言葉があったら、
ぎこちなくしか言えないだろう。
「忖度する」とか「疲弊する」
という言葉を知らなかったら、
その言葉に対して不自然な発音や間になってしまう。
極端なのは関西弁か。
それを普段使っていない人が、
簡単に発声できる言語じゃないよね。
言葉はひとつの感情でもある。
「むかつく」しか知らない人は、
「怒りをあらわにする」
「怒りを腹にため込む」感情を表現できないんじゃないだろうか。
つまり、役者にとって、自然か自然じゃないかを決めるのは、
その言葉や感情を普段使っているか、
と関係していると思う。
メソッド法はまさにその考え方を使った演技法で、
「仮にその台本のことを経験していなかったとしても、
それに近い、自分の経験や言葉や感情を思い出し、
まるでそのように演じる」
というやり方だ。
演技の相似形を、自分の経験の中から探してくるわけだね。
そうすると、その役者にとっては自然になる、
ということだ。
知らない言葉でも、知ってる言葉のように言えるわけだ。
それを経験したことがないと演じられない、
というタイプの人は、
ある職業ものをやるときに、
その職業をしばらくやってみることもある。
その職業特有の考え方や空気を、
自分の中に取り込むわけだね。
さて。
これはすでにある脚本を演じる場合の話だけど、
脚本家はどうなんだい、ということだ。
そもそも使い慣れていない言葉や感情を使って、
無理やり書いたものは、
役者が不自然な芝居になるんじゃないか?
ってことだ。
仮に撮影現場の場面だとして、
「ちょっとそれバミッといて」
「了解です」
「パーマ持ってる?」
「白すか、黒すか」
「黒に決まってんだろ。床見てから言えよ」
なんて会話が自然に出てくるのなら、
その人は撮影現場に長くいた人だろう、
とすぐにわかるだろう。
バミるが何かを知らない人は自然に演じられないだろうし、
パーマがすぐ出てこないだろうし、
白か黒か聞くことが出来るのは、
バミリがナチュラルに出来る人の話だ。
こんな風に、
自分の世界に近いならば、
自分にとってあまりにも自然のように書けるだろう。
しかし実際には、自分の知らない世界を書くので、
その世界で当たり前にある感情や場面や言葉を、
不自然に書いている可能性があるということだ。
専門用語はまだ分りやすい。
問題は、もっと親しい世界だろう。
たとえば悲しいときに、
人はどういう言葉を吐くだろう。
「わたし、かなしい」なんて絶対に言わないよね。
それは人間の自然を分っていない、
下手な台本だ。
こんな台本を渡されたら、
どんな名役者でも、
うまく「わたし、かなしい」と自然に言えないと思うよ。
悲しくて、それを表明することで、
何か得があるからそうする、
とかの裏の何かがない限り、
そんな不自然なセリフは言わないものだ。
でもこれが、外国語を習ってる人のセリフだったら自然だ。
そしてそのセリフは、ぎこちないほど自然になる。
その、何がナチュラルかを、
脚本家が分っていないなら、
不自然な台本になってしまうわけだね。
この役者芝居が下手だなあ、
という裏には、
そもそも脚本がセリフが下手、
というのが隠れていることがある。
多くの人はそれを分離できないから、
役者のせいになってしまうだろうね。
この人芝居下手、というふうに、
短絡的にきまってしまうだろう。
逆に芝居の上手い役者は、
下手な脚本でも、
まるで自分の言葉のように言う技がある。
だからいつでも自然に見えてしまい、
脚本家は自分の書いたセリフが下手だと自覚できないんだよね。
自然な芝居をしよう、
自然な芝居をつくろう、
などと言っても、何が自然かなんて、
実際のリアルをたくさん体験しないと分らない。
取材をたくさんするのは、そういうわけだね。
その世界によくある、
感情、空気、考え方なんてのを、
学ぶために取材するんだよな。
2026年04月13日
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