2026年03月15日

一人称と三人称(小説「プロジェクト・ヘイル・メアリー」評2)

映画版「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を、
どのようにつくるかなー、などと妄想して、
いや、無理だなと心配になった。

相変わらず、
小説と映画の違い、一人称と三人称だ。

ネタバレなしで続けます。


この小説は一人称形式だ。
主人公が目覚めるところから始まる。
記憶がなく、自分の名前が思い出せず、
そこは宇宙船らしき中で、
自分はベッドに寝ていて、ロボットアームが自分を世話していて、
隣に同じベッドが二つあり、
二人のミイラ状態の死体がある。

体が動かなくて、徐々に動くようになってきて、
ここは重力が1Gではなく、
1.5Gであることを実験から確かめる。

ずっと一人称形式だ。

この面白さがまずある。
「私は一体だれなのか」という気持ちは、
一人称の中でしかありえない。

これを三人称でやると、
「俺は……誰だ?」「名前……思い出せない……」
という臭い芝居になる。
しぐさだけで表現できない。
「自分の名前を書こうとするが頭を抱える」だと、
筆記用具が悪いだけかもしれない。

「自分の名前が一体なんだったか思いだせない」
「自分が何者か分らない」
という感覚は、
一人称でしか感じられない。

同様に、
メジャーとストップウォッチを発見して、
物体を落下させて10回平均を取り、
計算して重力加速度を求めるのは、
一人称のほうがリアリテティがある。
三人称だとしゃべらないから、
彼が何を考えているか分らないからだ。
独り言をぶつぶついわないと、
何を考えているか分らない。
平均を取ったほうが正確であるとか、
物体の重さに重力はよらないとか、
そういう要素は三人称では説明できない。

そしてさらに紐をつるして、
フーコーの振り子も使う場面になるが、
同様に、重力加速度と紐の長さと周期の関係がある、
ということを示すには、
一人称でなければならない。

三人称だと、
ずっと黙ったままだろう。
彼が何を考えているのか全然分らないに違いない。
科学実験でも同じで、
彼の中の仮説や検証や結論、
1.5Gということはここは地球ではないこと、
あるいは地球であったとしても加速器に入っていること、
あるいは宇宙にいること、
などの仮説がどんどん出てくるさまや、
どうやらここは地球ではない、
という結論は、
セリフで言わないと分らないが、
それを独り言でずっと言い続けるのは、
とても不自然だ。

映画「火星の人」
(日本公開タイトル「オデッセイ」)では、
科学者がよくある
「ビデオに日記をつけるていで考えていることをしゃべる」
というやつで、
考えていることと映像をオーバーラップして、
一人称世界を再現していた。

しかしこれも限界があるだろう。
この小説は、
長い上巻の真ん中までは、
ほぼ一人で宇宙船にいるのだ。

当然、
これだけでは持たないので、
彼が目覚めて徐々に記憶を思い出す場面で、
普通の三人称世界がえがかれる。
それが徐々にこの宇宙船の存在意義を分からせるような仕組みになっていて、
僕らは、
「彼が思い出す」という体験を一緒にすることになる。
これは一人称だからできることだ。

「ああ、そうか、僕は○○で、
この宇宙船は○○のためにあるのだ!」
という「思い出すこと」は、
三人称では表現できない。

しかも思い出す絶望的なことは、
「この宇宙船は地球から16光年かなたに離れたタウ星へ向けられたもので、
地球滅亡の危機を救うためにある。
私は研究結果を地球に送らなければならない。
帰りの燃料と食料がない、
これは片道切符の死への旅行である。
そして私の研究が失敗したら、
16光年かなたの地球は死ぬ」
だ。

これは、一人称でしか味わえない。

三人称では、
「誰かが言ったこと(自分も含む)を、
回想の形で思い出す」
しか出来ないと思う。

これは映画化不可能案件じゃね?


回想の中、
つまり、主人公がミッションに呼び出されて、
最終的に宇宙船に乗り、出発するまでは、
長い長い、断片的な記憶として思い出される
(これをBストーリーとしよう)。

彼が目覚めた「現在」から、
巻末の最終的に地球に小型船を打ち出すまでの、
一人称の冒険(これがメインのAストーリー)と、
平行で進む形式だ。

そして、最後の記憶が思い出されたときに……
というパターンになっている。

この、彼の思いと同一の体験をするには、
一人称しかないと思う。

三人称である映画では、
ここまで脳の中に、
主観に入れない。

「思い出せない」「思い出した」
「実験の仮説を立てる」
「仮説と違ったので、また別の仮説を立てる」
「考察して、これは○○であると結論をつける」
「部分的にしか思い出せない」
「完全に思い出した」
「まさか、過去の私の決断したこととは、
死ぬことを分ったうえで、
人類を救うために志願したことか」
「そのことについては怖いので、
そのときが来たら考えることにする」
などのことが、
すべて面白いのだが、
これは三人称にはならない。


Aストーリーは一人称、たった一人の宇宙船の中の話だ。
Bストーリーは学校(彼は中学の科学教師だ)から始まり、
彼が拉致されるところから始まる、
三人称っぽい一人称だ。
どうやっても彼の中の思い出し話だからね。

これらが交錯したまま話は進む。
「今起こっていることは、
一体なんなのか」が、
実は最後の最後まで引っ張られる。
一人称だからだね。

彼の目線から見た、
「完全には何が起こっているのか不明のまま、
しかし確実に前に進めなければならない、
そして、次に何が待ち構えているか、
全貌が予測できない」
というのが最後まで続く。
この、「一人称であることの面白さ」が、
爆発しているのが原作小説である。
これは三人称ではできない。

三人称でできる面白さとは、
二人以上の人間の、
行動から推測した思惑であり、
対立したり和解したりする、
人間関係の進展だ。
これは一人称でもできる。
しかし一人称でできることは、
三人称ではできない。


これは、映画版は、
相当な変質を迫られている、
ということが予測される。

一人で宇宙船に取り残されている、
というオープニングを15分程度で終わらせたら、
回想形式のドラマを厚めに積み、
異なる者たちの対立と衝突を描くのだろうか。
長官のキャラは面白かったし、
同僚のキャラも面白かったので、
そのあれこれをメインにするのかしら。

「今見えている太陽の黒点を観察して、
数時間経って一周することを確認したら、
それは我々の太陽ではないことが分る」
なんて面白さを、
三人称で表現する自信は僕にはない。
その、退屈かつ不安で待つ時間を、
表現する技法が三人称にはないからね。

これを映画化せよ、
というのはかなり無理のあることじゃないかと思った。


そしてさらに中身に分け入りたい。
以下ネタバレします。

ここをネタバレすることは、
小説を読む人のために取っておきたいので、
読んだ人だけ次をどうぞ。









大丈夫?
ネタバレに関しては、
今回は重要事項なので、
いったん警告。








さて。

まさか異星人との接近遭遇の話になるとは、
冒頭からはまったく予測できなかったことだ。
ここが一番驚くところで、
一番ネタバレできないところだ。

まあ、物語論からすれば、
一人称だけで長い話が持つわけではないから、
「他者」をもってくるのは当然な手法ではある。
しかし、
地球の科学では建造不可能な、
巨大宇宙船「ブリンプA」に出会い、
光の信号をかわし、
物理的なカプセルのやり取りをする興奮というのは、
ものすごいドキドキがある。

もう読むのがもどかしいくらい、
「先を読ませてくれ!」って思ったもの。
この楽しみは、
一人称でないと分らない。
「俺が人類最初の宇宙人遭遇者になる」
というワクワクは、
三人称では伝わらない。

そして、
異星人がつくったものの材料や、
中身のメッセージの解読は、
完全に一人称じゃないと出来ないよね。
三人称だと、謎のメッセージを前に、
男がああでもないこうでもないと考えて、
「わかったぞ!」というしかないものね。
「知性のはたらき」は、外面からは見えないのだ。

だからこのワクワクする部分も、
映画では大幅にカットされるだろうなー。
「まさか、知的存在が向こうに乗っている?
まさか。いや、知的存在以外に、
あんな宇宙船がつくれるはずがない。
どういう科学で作られているのだろうか。
人類の科学は宇宙のどこでも通用するという仮定のもとに作られているが、
彼らの科学も同様の理論のはずだ」
という話を、
三人称で聞く相手がいないのに、
出来るはずがない。

(あるとしたら、随伴するAIにしゃべる、
とかだろうか。しかしAIが話し相手になるのは、
絶対的な孤独感を削いでしまうので、
悪手だと思う)

そして、
彼の姿や生育環境などをめぐる、
あれこれを超えていくさまは、
相手が何を言っているか分らないが、
言語として理解していくさまは、
一人称でしかなしえない、
科学的興奮に満ちた文章だ。
これも三人称だと、
単に話が通じなくてイライラする場面にしか見えないだろう。


総じて、
三人称の限界を感じる。
一人称の豊かさを感じる。

三人称には三人称の良さがあるが、
これほどの内面の豊かさを表現できる媒体ではないのだ。

この絶望よ。

映画版は、3/20に公開だそうだ。
うーん、「オデッセイ」(駄タイトルとして使うぞ)なみの、
しょうもな映画になるんじゃないかなー。
エイリアンと出会って、仲良くなって、
友情をはぐぐむ映画になるんじゃないかしら。

え、宇宙人と出会うの???
という驚きは、
全然なくなる映画になりそう。
だって、CGでそんなの一杯見てるもんね。

小説版は、
一人称の科学小説として積み上げたさき、
孤独の絶望のさきに、
「別の宇宙船との遭遇」というものすごいひねりが加わり、
驚愕につながるからだね。
そして、「これからどうなっちゃうんだ?」
という、一人称特有の不安、
しかしやるしかない、という決断を、
丁寧に描いているから面白いんだよなー。
それを傍目からみたら、
孤独な宇宙船の人が、向こうと出会い、
仲よくなるだけに見えるなー。

つまり、「状況から察せられる第三者の内面は、
限界がある」
というのが三人称だ、
ということも言えそうだ。


さて。
映画と小説は違う。
そんなことは死ぬほど分っている。
でも、
これほど違いを見せつけられる違いはないんじゃないか。
小説で宇宙人かも?ってなったとき、
僕の心臓はめちゃくちゃドキドキした。
「そっちへ話がいくの?」
という驚きもあるけれど、
「自分がまさに宇宙人に初めて会った人」
くらいにドキドキした。
一人称の、これから何が起きるか分らない不安に、
相当なれたと思う。

三人称では客観的なので、
こうはいかないだろうな。
「占いは一人称で初めて効果がある」
という感じか。
先が全然分らないからこそ、
占いに頼る感覚。
あの不安は、三人称じゃ出ないねえ。
その、絶対零度の暗黒空間の不安
(これを宇宙的恐怖、コズミックテラーと呼ぶことがある)
を、うまく描いてからの、
宇宙人との遭遇だからなー。


というわけで、映画版に期待だ。
見終えたら、比較して議論したい。
posted by おおおかとしひこ at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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