2026年04月17日

主人公が魅力的じゃないのは、「他者」じゃないから説

ときどき、主人公に魅力が足りないものがある。
そういうものは、
たいてい、主人公を自分にしてしまっているからじゃないか。

他人を主人公にしろ、と僕はよく言う。

自分を主人公にすると、
主人公が魅力的じゃないことになってしまう弊害にまきこまれるぞ。


主人公を自分にしてしまう、
というのはベテランでも初心者でも、
引っかかりやすい罠だと僕は思う。

人は自分を書こうとする。
自分を分ってほしいと思う。
それが書く動機になることは理解できる。

でも、三人称形式はそれを許さない。
一人称だったらまだあると思うんだよ。
私は〜、自分は〜、という形式が可能だ。
だけど、三人称になったら、
その人は他人だ。


一人称だと「自分と他人たち」という見方になるものが、
三人称だと、
全員、「私(=作者、観客)ではない、ほかの人たち、みんな」
ということになってしまうことに注意せよ。


一人称は自分(読者)と主人公の視点を、
強制的に一致させる。

しかし三人称はそうではない。
舞台に上がっている第三者たちを眺めて、
誰か他人の人生を見つめるものである。

一人称だと、
簡単に作者=主人公=読者ということが可能だ。
ぜんぶ俺、という感覚になれる。
しかし三人称はそうならない。
作者と主人公は違う人物で、
誰かほかの人だ。

そしてその人は、
最初は観客にとっては他人なのだが、
感情移入しているうちに、
まるで主人公=自分になってしまうのだ。

そして、最後まで、
作者≠主人公である。
作者≠主人公=観客、
という図式がなりたつ。
これは一人称の、
作者=主人公=観客、
という関係式とは違うものだ。

なぜかというと、視点が主人公の中にあるか、
舞台側にあるか、という違いだろう。
我々観客はどうやっても舞台の上の役者の目の中、
脳の中には入れない。
そのため、三人称という形式が発展したのだろう。

さて本題だ。
一人称で書いてしまうと、
とくに主人公は魅力的でなくても構わない。
なにせ自分の視点で展開されるので、
自分がそんなに魅力的だと思っている人などいないからだ。
だから、とくに自分の魅力が物語を進行させるということはない。

自尊心をくすぐられるエピソードはあるかもしれないが、
基本はそのことでストーリーは進まない。
(進む場合もある。オレスゲーパターンだね)

しかし、
三人称で魅力のない主人公はつまらない。
好きになれないし、
感情移入も難しいのではないか。
でくのぼうであろうが、悪いやつだろうが、
何かしら魅力がないと、
「見世物としてつまらない」があると思う。

これが、映画の主役がイケメンや美女である理由だ。
少なくとも外面は魅力がないと、
つまらないのだ。
で、性格はでくのぼうだけどイケメンや美人だと変なので、
内面にも魅力があるべきだ。
というか、そうでないと、
尺が持たない。

つまらないやつ、臆病なやつ、だめなやつに、
感情移入するのは、
それが良く出来ていて、しかもそれが成長する予感があるときに限る。
そして、成長するということは、
どこが良い部分があり、
その芽が育つことが成長だ。

つまり、どこかしら、
主人公はラストにはばたく何かを持っていなければならない。
最初から持っていてもいいし、
途中で獲得してもよい。
おそらくは、最初から成長のエネルギーがあり、
それを後半燃焼させることになるんじゃないか。


で、
作者=主人公にしてしまうと、
そういう魅力を持つことが難しくなる、
というのが本題だ。

なぜなら、
作者は自分自身に魅力がない、
成長する余地のある魅力をもっていない、
と思いこんでいるからだ。
あると思っている人は、多分物語など書かない。
(実際にあるかどうかは問わない。
そう思い込んでいるということだ。
逆に、ないのにあると思いこんでいる人もいるだろう)

自分の魅力で他人を篭絡して、
かつ世界を変えていく、という一人称を書く人は、
よほどの自信家か自分大好きな人だろう。
三人称でそれを書けるなら、
それは大変な恥知らずか、
よっぽとのイケメンとか美女とか、
世界征服できるだけの能力を持った人だ。

で、物語を書く人はどれでもないので、
つまり主人公=作者にしてしまうと、
ちんけな、魅力がない人に描きがち、
ということになってしまう。

作者にとってリアルかもしれないが、
見世物を見に来ている観客にとっては、
つまらない。

だから、作者を主人公にするべきではない。


他人を描きなさい。
もちろん、スーパーマンを描く必要はなくて、
欠点があり、ろくでもない部分どころか、
嫌いなところもあるが、
しかし魅力のある他人を描きなさい。

他人なら、魅力を描くことができる。
私は魅力がないが、
魅力のあるあの人を描くことはできる、
というやつだ。

どういう魅力かは任せる。
それが人物造型というものだ。



主人公に魅力がない?
じゃあつくればいいじゃん。
どういう魅力にしようか。
それはライバルや敵や味方やヒロインを、
造型することと同じだ。
作者じゃない、全然別人なのだ、
と割り切らないといけない。

それが難しいならば、
作者に近い人物を横において、
すごい魅力的なやつを主人公にすればいい。
ワトソンとホームズの関係だ。
バットとケンシロウの関係でもいい。
キン肉マンとミート君でもいいよ。
(のちにミート君は独立していくが)


観客は、主人公と自分とで二人三脚をしたいのだ。

作者はいらない。
作者と二人三脚したいのではなくて、
主人公と二人三脚したい。
そのことをよくよく考えることだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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