2026年03月20日

文章が上手な人と下手な人の違い

僕が上手かどうかは微妙なところだが、
まあ書ける方なので、上手側を代表させてもらう。

自称文章の下手な人が、
間違った文章の書き方をしているのをTwitterで見たので、
正してみたいと思う。


いわく、
「自分の言いたい事がバラバラに出てくる」
のだそうだ。

実はこれだけでは上手下手は関係なく、
同じだと思う。
人間は思いがランダムである。
できたところから出てくるものだ。
問題はこの次だ。

下手な人は、
「だから思いついた順に言葉を書く。
そしてあとから見たときに、
読む人の理解する順になっていないと感じ、
文をバラバラにして意味が通るようにする」
らしい。

そりゃ下手だわ。
そんな訳の分からないパズルがきれいにできる保証はないからだ。

そして、
「自分の言いたい事と出来上がった文章が合致してなくて、
なやむ」のだそう。
そりゃそうやろ。
自分の言いたいことはバラバラのことでしかないからだね。
それを無理矢理並べて、
通りのいい文章になってる保証などない。
支離滅裂の可能性の方が高い。

この人に編集能力や言語化能力がないわけではない。
なぜならこのこと自体は説明できてるからだ。
だけど、そうなる確率が低いのは想像するだけでわかる。
僕もこのやり方を取ったとしたら、
生産量は1/10以下になると思う。

うまい人はそんなやり方を取らない。


まず言いたい事をプールにためる。
文章の形ではなく、なんらかのモヤモヤとしてだ。
文章の形をしていたら、
容量オーバーになってしまうので、
文以前、言語以前の何かとしてたまることになる。

それらがある構造を取り、
なんとなく入口から出口まで見えた時、
人によっては箇条書きで構成ができた時、
「書ける」と思う。

そしてそのことを、
「自分が思ったように書いていく」のではない。
「それを初めて聞いた人が、理解できるように、
最初から書く」のだ。

話には枕がある。
冒頭である。
それは、何も知らない人が、
これからなんの話をされるのか、
どのような話題についてなのか、
その設定のためにあるわけ。

この文章で言えば、
「こないだTwitterで見たんだけどさ、
下手な人の文章の書き方はまちがってるよな」
みたいな所から入ってるわけ。
僕がTwitterで見たかどうかは本当でも嘘でもいい。
「こないだマックで女子高生が言ってたんだけど」
と同じなわけだ。
女子高生だろうがTwitterだろうが同じだ。
枕になってれば、
話の導入になってて、
これからこの話をしますよ、って風になってればそれでよいわけ。

それが、僕の真実を語っていようが語っていまいが、
どっちでもいい。
僕の言いたいことは、
上手い人と下手な人の文章の作り方が違うぞ、
そしてこう違うぞ、
という点にあるのだ。


下手な人が読んでも、
上手い人が読んでも、
この文章は成立するように書いているつもりだ。
つまり、読者を想定しているわけだ。

演台にのぼり、
いろんな観客がいると想定して、
それぞれの顔を見ながらしゃべるのを、
イメージすればいいのかな?

僕の場合は、
僕自身が、書き手、聞き手1、聞き手2、聞き手3……
という重ね合わせの複合人格になっていて、
「僕が僕の話を聞く」
という体勢になっている。
(だから「?」と思ったり、
「そこ変だぞ」と言うのは、部分人格だ。
そして、我々全員が納得しながら、
話を進めていく感覚だ)

そこは書き手によってスタイルがあると思うので、
それぞれで編み出されたい。


重要なことは、
初めから最後まで、
自分の書きたいことを書くわけではない、
ということだ。
初めから最後まで、
「読み手に向かって書く」だけなのだ。

私が言うのではない。
私は聞かれるのである。
私は聞くのである。



だから、「言いたい事を書く」の、
初手が間違っている。
書くこととは、こちらからの発信ではない。
相手の理解の順に与えることだ。

「お前とセックスしたい」というのではなく、
「月が綺麗ですね」というのが「書くこと」だ。

つまり、書くこととは、
ビリヤードのワンショットのような、
最後まで計算され尽くした一連なのだ。
好きなところへ適当にガンガンぶつけていくことではないのだ。

「まず自分の思った事を書いて」が、
いかに初手から間違えているかわかるだろう。
「それを分かる順に並び替えてつぎはぎする」
なんて、間違いの二重重ねである。
最初にまっすぐ向いてなかったスイカ割りを、
いかにぐるぐる回しても、
当たりの方向に行く確率は低いのだ。

やるべきことは、目隠しを外すことだ。
「どこから始めて、どこへ至るかを、
イメージすること」なのだ。


真逆の文章に、数学言語がある。

数学言語は絶対文だ。
過不足なく、客観的に一意で、
極論、読み手が世界にいなくても、
人類がいなかったとしても、
絶対に正しい事が書いてある。

つまり読み手に左右されない、
絶対客観文章だ。

数学言語はだから、読み手を想定していない、
とすらいえる。
読み手が0でも真実だからだ。
誰にも読まれない論文でも、
正しければ正しい。

それが数学の美しさ、永遠性だと思うけれど、
自然言語はその人工言語ではない。
自然人間、
つまり生きて死に、飯を食って寝てセックスして、
欲望にまみれ、社会的文脈に左右され、
好みやIQが気分がバラバラの、
人々が聞くものである。

数学言語の聞き手が0だとしたら、
自然言語の聞き手は全員である。


だから、
あなたの中で思った事を、
正確に表すのは(自然の)文章ではないのだ。
聞き手の事を考えていないからだ。

文章を書くことは、
聞き手0の真実を一意に書くことではない。
コミュニケーションである。
誰との? 想定全員とだ。

数学的言語は、
イデアたる神への捧げ物であり、
人間すら介しない究極のオナニーだ。

自然言語文章は、
全員と濃密なセックスができることだ。



というわけで、
文章の下手な人は、
「私の言いたい事を極限まで正確に書く」ことをやめて、
「私はどう書かれたらそれを理解できるか」と、
私に向けて説明をすれば良い。

ただ頭の良すぎる人は「あきらか」で終わりがちなので、
IQを20減らした自分、
泥酔した自分を想定すると良い。
会話が通じなくなるレベルのIQ差を、
文章の分かりやすさで乗り越えるのだ。

僕はたまに、
「大阪のおかんにも分かる文章を書け」という。

しかしおかんだってバカではない。
まず前提の枕をしっかりして、
「今から文章の下手な人と上手い人がどう違うかを話します。
どう違うと思うか、自分なりに考えながら聞いてみて」と、
明示的に話題をたちあげ、
その世界で話を始めれば良いのだ。

標準的な知性の人は、
どれくらいの話を理解するのか、
頭のいい人は、バカな人は、
などのグラデーションを見て、
すべての人に分かりやすい話をするのが最上級だけど、
僕は最上級ではないので、
普通の人とちょっと賢い人むけに、
この文章を書いた。



言語化は作者のためにあるのではない。
読者のためにあるだけだ。

(ほんで言語化の上手い人は、
読者のために書くふりをして、
自分のために整理して書いてるのよね。
自他共益なのだ)

文章のうまい人は、
最初に話を溜めるためのプールが大きいのだと思う。
下手な人は思いついたらすぐ書いちゃう。

ちなみにそのプールは、
文章を書けば書くほど大きくなっていくことが、
経験的にわかっている。

あとはそのためた話を、
どういう切り口で話せば、
わかりやすく面白くなるかなー、
と考える事が、
文章が上手い人がやっていることだ。



書き手は全員嘘つきである。

書いてる内容の本質的な部分は真実なのだが、
語り方や切り口は、嘘という手練手管をつかって、
わかりやすくすればいいだけだ。

ちなみにこれは、
昨日マクドで女子高生が話していたことだ。
posted by おおおかとしひこ at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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