2026年03月22日

三人称と一人称の違い(映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」評)

原作小説の一人称の面白さ、
自分が分からないことや科学の実験をすることや、
この先どうなるのか全く読めないことが、
三人称ではほとんど出ないだろうなと予想はしていた。

だから結局「ロッキー」との話が中心になるだろうと。
だけどそれじゃあ全然面白くならなかったね。

原作、映画ともにネタバレで続けます。


映画にある要素を、
わざとふんだんに使っているように思えた。

色、音、
音楽、映画、
ダンス、ジョーク、アクション。

これぞハリウッドの武器、
みたいなのをちょいちょいぶっこんできて、
「どうだ、これは小説にはできないだろう」
とドヤ顔してるのが薄ら寒かった。

たしかに中盤の、
カラオケパーティーのオリジナル場面はよかったよ。
どんなセリフのドラマよりも、
歌詞に彼女の言いたい事が託されてる事がわかって、
ああ、映画の原型はミュージカルだと思える場面で、
すごくよかった。

だけどそれと、
原作の一人称アツイ科学小説は、
交わらない平行線に思えるのよ。

長い長い原作をうまくまとめた、
コンパクトな脚本だとは思うけれど、
短くなってしまったゆえに、
原作の欠点が出ちゃうのよね。

この話のテーマって何?ってね。

「地球を救う英雄になる」ではなかろう。
奇妙な友情?
それがメインでもないよね。
映画版はそこにフィーチャーしようとしたけれど、
ラストシーンはそのことと関係ないよな。

主人公は教師であったが、
再び教鞭を取りました、
が、その友情話とも、
地球を救うこととも関係ない。

原作ほどの科学小説になっていれば、
科学の勉強は大事だろ?
ってオチになるけれど、
そうなってなかった。

だから浮いてるのよ。
教師である意味ある?って。

(そしてそもそも、エリディアンの科学は、
地球よりも進んでいるはず。
今更彼が教えること残ってるのかしら。
まあ放射線や相対論はやる必要あるのか)


そうそう、
原作小説にあった、
「地球外生命体との接触」の興奮が、
全然足りなくてびっくりする。
やっぱ一人称のそれと体験性が違うんだなーと。
アストロファージが生きたカビみたいな衝撃や、
ロッキーとの出会いが、
「これまで映画で死ぬほど出てきた宇宙人との遭遇」で、
全然興奮しない。

なんなら、ロッキーとの出会いで、
「未知との遭遇」の5音のコミュニケーションしちゃってて、
笑ってしまったよ。
50年遅れてるじゃんか。

原作ではまさか宇宙人と出会うの?
っていう、
そうとは思ってなかった強烈なツイストなんだけど、
映画では宇宙人と出会うのはかなり普通、
くらいな感覚だったね。
登場人物よりも、
我々観客がすでに慣れてるからだ。


科学実験や知識のことは、
念入りにすべて除かれていた。
ストーリーに必要な、
「大気組成が違う事」くらいしか残ってなかったんじゃね?
大気圧が全然違うことすら無視してたな。

結局ホワイトボードに数式を書く、
いつもの表現でまるっと誤魔化されてたね。

うーん、最初1.5Gだって計算するところとか、
宇宙ではあらゆることに時間がかかるところとか、
かなり好きなんだけど、
かなりはしょられてしまって、
楽しさ半減。


じゃあ、半減したあとに何が残る?
ってなったら、
キャラクターとプロットなんよな。

でさ、それを大きく崩せないから、
映画脚本がやることって、
小ネタを足すことなのよね。

だから、テーマって何?
っていう一番大事なところが、
抜け落ちたんじゃないかしら。


伝統的三幕構成の形をしていない。
センタークエスチョンは「地球を救うこと」だが、
そのための具体策がわからない。
「アストロファージを研究して、
打開策を見出すこと」なんだけど、
そんな研究が結実するとは思えないので、
いまいち身が入らないんよね。

それよりも、
「宇宙人とどう会話するのか」とか、
「彼らの環境や生態学」のほうがおもしろいんだからね。


つまり、
小説は、一人称系をふんだんに利用した面白さに満ちている。
三人称である映画は、
プロットだけもってきたら、
たいしておもしろくないプロットだとばれちゃった感じだ。

そして大改造のできない脚本のため、
音楽、ダンス、歌、ジョーク、
エモーショナルな部分、
などの搦め手を使ってきた、
という感じであった。


そしてそもそも、映画だけを初見で見たら、
「それのなにがおもしろいの?」ってなると思う。

小説の映画化の難しさを、
痛感する例だね。


原作小説: 98点
映画: 40点くらいかな。

「火星の人」よりはおもしろいかもしれないが、
映画としては知れてる出来だ。
posted by おおおかとしひこ at 01:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
もう2年ぐらい上映を楽しみにしていた気がするので、ハードル上げ過ぎていたというのもありますが、まあ映画にしたらこうなるよな、という感じではありました。
今どこにいるのか把握するところまでが面白いのに、見事にすっ飛ばしていったので、その時点で「これは別物だな」と思って楽しむことにしましたが、やっぱりその部分をすっ飛ばしたら別物になりましたね。
Posted by ゆうや at 2026年03月22日 11:06
>ゆうやさん

一人称は考えている事を表現できますが、
映像では考えてることはモノローグまたは独り言でしか表現できません。
この映画では、独り言、AIとの対話、記録ビデオにしゃべる、
という3つの方法をとっていて、
モノローグは禁止していました。

アジア圏での映画はモノローグを比較的使う傾向にありますが、
なぜか欧米圏ではモノローグは使用禁止くらいの勢いで使わないですね。

なので、
あー、モノローグ禁止系かー、と開始しばらくして思ったので、
一人称世界はないんだなーとがっかりしたあとに、
だとすると「ロッキー」との話になるだろう、
と予測しました。
そこにダンスや歌という、ミュージカルという技を使うしかないのだなーと、
苦し紛れを感じましたね。

モノローグに関しては、
過去記事で、少女漫画「セクシー田中さん」のときに、
徹底的に分析しています。
モノローグを封じられると、
一人称世界は三人称世界にならないんですよねー。

https://oookaworks.seesaa.net/article/503588547.html?1774148217
Posted by おおおかとしひこ at 2026年03月22日 11:34
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