Twitterトレンドに「打ち切り」があがってて何事と思ったら、
チェンソーマン第二部が打ち切りエンドになってるらしい。
今なら無料なので読んでみた。
最初の一巻しか読んでなくてアニメも映画も見てないので、
一切アレなのだが、
ファイアパンチで見た特徴と同じだなーと思った。
この人はつまり、
「責任を取れない人」なんだなと。
男女関係にたとえると、
モテるけど食い散らかして、
女を泣かせて、次の女のところへいくクズ男のタイプだね。
いや、本当の性格と作品は異なるので、
私生活では真面目に結婚してるよき父かもしれない。
作品には本性が現れるとか、
深層心理が描かれる説は、
ある程度真実だ(とくに無警戒や無自覚だった時ね)が、
僕は線引きするべきだと考えている。
なので、個人としての藤本はどうでもいい。
だが作品はクズ男だ。
女しか出てこない。
あまつさえ新しい女に、
都合よく惚れられて新しい恋が生まれようとしてる。
アスカも綾波もダメだったのでマリを登場させた、
庵野と何が違うのだろう。
文字通り責任を取らないクズ男をそのまま描いている。
毎日楽しければそれでいい的な。
連載とは、クズ男のほうがモテるのかもしれない。
今週面白ければそれでいい。
今巻面白ければそれでいい。
今クール面白ければそれでいい。
新しい女がでてきて、次の面白さに乗り換えられればいい。
毎日ゲームして飯食って寝てればそれでいい。
明日や未来という責任を取るつもりはない。
その責任がなければ、
今だけに100%使える。
チェンソーマンはちゃんと読んでないのでわからないのだが、
少なくともこの第二部最終回だけは、
そんな匂いがした。
(第三部があるかどうかは不明)
これは責任の取れない男の話だと。
連載と異なり、
映画というのは完結の芸である。
ラストシーンのためにすべての風呂敷を広げて、
きれいに畳むのが芸である。
畳みきれてない作品はクソみたいだ。
たとえば「マルホランドドライブ」を見てみるといい。
あらゆる伏線を投げっぱなしにして、
煙に巻いたラストは意味がわからない。
深い意味もなく、困ったので打ち切りました、
とごまかしてるにすぎない。
ここの脚本論は映画脚本を扱っている。
つまりラストシーンのための、
風呂敷の広げ方と畳み方について、
深く考察をしている。
だから畳めてない風呂敷はへたくそという。
連載は責任を取る必要があるか?
という話もある。
映画脚本にくらべて、何年も何百話もあるわけだから、
ラストの一話以外は楽しかったんだからいいだろ、
それまで儲けただろ、お前も楽しかっただろ、
という責任を取らなくてもいいという説もある。
ただ、信じてついてきた女たちは、
責任を取られずに逃げられたと思うだけだ。
映画脚本はラストまで責任を取らなければならない。
連載は途中まで盛り上げればあとはどうでもいい。
極端には、こういう立場がある。
とはいえ、人の気持ちというのがあるので、
長期連載は、
何かしらの「納得の行くエンド」で責任を取る方が気持ちいい。
ラブストーリーなら結婚エンドとか、
勧善懲悪なら勝利エンドとかだ。
そんなのくだらねえという逆張りを、
彼はよくしていたように思う。
若さゆえの反発かと思っていたが、
単なる責任取れない人であったか。
ファイアパンチの伏線投げっぱなしまくりを思い出した。
あれはどうなったんだ?を全部投げて、
「1万年後」に時間を飛ばして全員いなくなったというのは、
ほんとうにひどかった。
ある意味クズ男の究極エンドだろう。
繰り返すが彼の人格は知らない。
作品の話しかしていない。
さて、映画脚本の場合だが、
風呂敷の畳み方には、簡単な技がひとつある。
「ファーストシーンで前振ってきたことを、
決着をつけること」だ。
第1話はよく覚えてないのだが、
主人公デンジが、ポチタに悪魔退治を依頼?されることだった。
だから、
「最後の一匹を退治して、
悪魔退治が完了する」
でいいと思う。
これまでどんな話があったのかはわからないが、
悪魔退治が完了して、
ポチタに「ありがとうこれで僕のたのみごとは終わった」
と言われて別れ、
あとは女たちに感謝されて、ヒロインも選びきれず、
ずっとヒモになればいいと思う。
なんなら文化祭の工作で困ってる女の子がいて、
ノコギリが上手く使えなくて、
「貸してよ」ってノコギリでガーッと切ってあげて、
「チェンソーみたい」って言われて、
「俺チェンソーマンだから」と笑ってエンドでもいい。
タイトル回収して、
第1話に対して責任を取れてれば、
それがどんなにしょぼかろうが、
クズ男ではない。
もちろん大団円になるほうがベストだけど。
おそらく彼の中では、
「悪魔がいなくなることはない。
なぜなら人には悪性があり、完全退治はできないのだ」
と思ってるのかもしれない。
それならそれで、デビルマンくらいやり切ってもよかった。
それはそれで別の責任の取り方だと思う。
ジャンプ本誌ではできなくても、今なら可能だろう。
いまだに悪魔退治をゆるゆるやっているのは、
ぬるい日常をずっと続けたいという、
80年代の物語を彷彿とさせる。
そういう物語をやるには、
彼の絵は情念がこもりすぎていたのだろう。
ゆうきまさみや高橋留美子くらいの絵柄なら、
そういうループエンドも許されただろう。
ベルセルクのような狂い方もできなかった。
(三浦建太郎は責任を取らないまま幽界に行った、
結果的なクズ男である。
責任を取るつもりだったのは知ってたから、
皆が惜しんだのだが)
こうした先人たちの棚が大きすぎて、
彼が入る場所がなかったのかもしれない。
それならそれで、新しい責任の取り方を期待したのだが。
僕は映画脚本の立場からこれを論じている。
漫画論では別の議論も可能かもしれない。
脚本を書く人間からすると、
ラストシーンで2時間の評価が決まるぞ、
つまりそれはファーストシーンに対して、
どう責任を取るかを描くことだ、
ということを書いておく。
連載はたった2時間じゃないから、
数ヶ月、数年付き合って、散々引き出しておいて、
逃げる前提の、クズ男でもいいのかもしれない。
2026年03月25日
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