2026年03月25日

責任

Twitterトレンドに「打ち切り」があがってて何事と思ったら、
チェンソーマン第二部が打ち切りエンドになってるらしい。
今なら無料なので読んでみた。

最初の一巻しか読んでなくてアニメも映画も見てないので、
一切アレなのだが、
ファイアパンチで見た特徴と同じだなーと思った。


この人はつまり、
「責任を取れない人」なんだなと。

男女関係にたとえると、
モテるけど食い散らかして、
女を泣かせて、次の女のところへいくクズ男のタイプだね。

いや、本当の性格と作品は異なるので、
私生活では真面目に結婚してるよき父かもしれない。
作品には本性が現れるとか、
深層心理が描かれる説は、
ある程度真実だ(とくに無警戒や無自覚だった時ね)が、
僕は線引きするべきだと考えている。
なので、個人としての藤本はどうでもいい。

だが作品はクズ男だ。

女しか出てこない。
あまつさえ新しい女に、
都合よく惚れられて新しい恋が生まれようとしてる。
アスカも綾波もダメだったのでマリを登場させた、
庵野と何が違うのだろう。

文字通り責任を取らないクズ男をそのまま描いている。
毎日楽しければそれでいい的な。


連載とは、クズ男のほうがモテるのかもしれない。
今週面白ければそれでいい。
今巻面白ければそれでいい。
今クール面白ければそれでいい。
新しい女がでてきて、次の面白さに乗り換えられればいい。
毎日ゲームして飯食って寝てればそれでいい。

明日や未来という責任を取るつもりはない。
その責任がなければ、
今だけに100%使える。

チェンソーマンはちゃんと読んでないのでわからないのだが、
少なくともこの第二部最終回だけは、
そんな匂いがした。
(第三部があるかどうかは不明)
これは責任の取れない男の話だと。


連載と異なり、
映画というのは完結の芸である。
ラストシーンのためにすべての風呂敷を広げて、
きれいに畳むのが芸である。

畳みきれてない作品はクソみたいだ。
たとえば「マルホランドドライブ」を見てみるといい。
あらゆる伏線を投げっぱなしにして、
煙に巻いたラストは意味がわからない。
深い意味もなく、困ったので打ち切りました、
とごまかしてるにすぎない。

ここの脚本論は映画脚本を扱っている。
つまりラストシーンのための、
風呂敷の広げ方と畳み方について、
深く考察をしている。

だから畳めてない風呂敷はへたくそという。


連載は責任を取る必要があるか?
という話もある。
映画脚本にくらべて、何年も何百話もあるわけだから、
ラストの一話以外は楽しかったんだからいいだろ、
それまで儲けただろ、お前も楽しかっただろ、
という責任を取らなくてもいいという説もある。

ただ、信じてついてきた女たちは、
責任を取られずに逃げられたと思うだけだ。


映画脚本はラストまで責任を取らなければならない。
連載は途中まで盛り上げればあとはどうでもいい。

極端には、こういう立場がある。

とはいえ、人の気持ちというのがあるので、
長期連載は、
何かしらの「納得の行くエンド」で責任を取る方が気持ちいい。
ラブストーリーなら結婚エンドとか、
勧善懲悪なら勝利エンドとかだ。
そんなのくだらねえという逆張りを、
彼はよくしていたように思う。
若さゆえの反発かと思っていたが、
単なる責任取れない人であったか。

ファイアパンチの伏線投げっぱなしまくりを思い出した。
あれはどうなったんだ?を全部投げて、
「1万年後」に時間を飛ばして全員いなくなったというのは、
ほんとうにひどかった。
ある意味クズ男の究極エンドだろう。

繰り返すが彼の人格は知らない。
作品の話しかしていない。



さて、映画脚本の場合だが、
風呂敷の畳み方には、簡単な技がひとつある。

「ファーストシーンで前振ってきたことを、
決着をつけること」だ。

第1話はよく覚えてないのだが、
主人公デンジが、ポチタに悪魔退治を依頼?されることだった。
だから、
「最後の一匹を退治して、
悪魔退治が完了する」
でいいと思う。

これまでどんな話があったのかはわからないが、
悪魔退治が完了して、
ポチタに「ありがとうこれで僕のたのみごとは終わった」
と言われて別れ、
あとは女たちに感謝されて、ヒロインも選びきれず、
ずっとヒモになればいいと思う。
なんなら文化祭の工作で困ってる女の子がいて、
ノコギリが上手く使えなくて、
「貸してよ」ってノコギリでガーッと切ってあげて、
「チェンソーみたい」って言われて、
「俺チェンソーマンだから」と笑ってエンドでもいい。

タイトル回収して、
第1話に対して責任を取れてれば、
それがどんなにしょぼかろうが、
クズ男ではない。
もちろん大団円になるほうがベストだけど。


おそらく彼の中では、
「悪魔がいなくなることはない。
なぜなら人には悪性があり、完全退治はできないのだ」
と思ってるのかもしれない。
それならそれで、デビルマンくらいやり切ってもよかった。
それはそれで別の責任の取り方だと思う。
ジャンプ本誌ではできなくても、今なら可能だろう。

いまだに悪魔退治をゆるゆるやっているのは、
ぬるい日常をずっと続けたいという、
80年代の物語を彷彿とさせる。
そういう物語をやるには、
彼の絵は情念がこもりすぎていたのだろう。
ゆうきまさみや高橋留美子くらいの絵柄なら、
そういうループエンドも許されただろう。

ベルセルクのような狂い方もできなかった。
(三浦建太郎は責任を取らないまま幽界に行った、
結果的なクズ男である。
責任を取るつもりだったのは知ってたから、
皆が惜しんだのだが)

こうした先人たちの棚が大きすぎて、
彼が入る場所がなかったのかもしれない。

それならそれで、新しい責任の取り方を期待したのだが。



僕は映画脚本の立場からこれを論じている。
漫画論では別の議論も可能かもしれない。

脚本を書く人間からすると、
ラストシーンで2時間の評価が決まるぞ、
つまりそれはファーストシーンに対して、
どう責任を取るかを描くことだ、
ということを書いておく。

連載はたった2時間じゃないから、
数ヶ月、数年付き合って、散々引き出しておいて、
逃げる前提の、クズ男でもいいのかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 06:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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