その運指がその意味だと思える感覚。
その意味がその運指だと思える感覚。
意味と運動が結びついている感覚。
べつに打鍵だけでなく、
他のことでも起こりえそう。
たとえばダンサーは、
言葉までいかなくてもそういう感覚をもってそう。
楽器だと、
この運指は悲しそうで、
この運指は楽しそうとかは全然ありそうだ。
作曲やダンスの振り付けは、
こういう意味(気分レベル?)で、
身体や指や楽器を動かすこと、
をつくる行為であるともいえる。
熟練したqwertyタイピスト、
僕みたいに脱落せずに、
自分の手足になった人には、
ある言葉と運指の関係に、
共感覚を見出すことがあっても驚かない。
「この音はこの場所のような気がする」以上に、
「この言葉は、こういう動きのような気がする」
みたいな感覚だ。
おそらく、
自分の手足のように慣れて、
自分の感覚が通じた状態だと、
どんな道具でもそういう感覚があると思う。
剣の世界では、剣先に痛覚が発生するらしいし。
僕は手書きのペンや、絵筆に関しては、
それくらいまである。
でもqwertyローマ字にはその感覚は生じないどころか、
日本語の共感覚をひとつも持てなかった。
たまにqwertyタイピスト
(競技タイパーと、熟練qwerty使いをふくむ)
では、共感覚的なことをいうときがあるよね。
僕は、ほんとは全ての人がそこに到達するべきだと思うんだけど、
(手書きではできる可能性はわりとあると思う。
悲しそうな字や嬉しそうな字が書けるから、
言葉以上の情報量を含むと思うので)
qwertyローマ字はそれをするには難しすぎる道具だと思っている。
ラクダエンさん:
> 身体化認知とオンライン制御を重ね合わせると、問題が一気に複雑になるな。「意味から運指を引き出す」のはともかく、「運指から意味を引き出す」となると有効と言えるほどできる人は少ない気がするから、基本的には「とっとと終わるに越したことはない」で済ませていいと思うが
タイピングでは少なそう。
そんな話を聞いたことのある例は少ない。
ただ、
しばしば熟練者に生じる感覚はあるので、
その一般的道具と人間の関係にくらべて、
タイピングが著しく少なそうな気がするのは、
qwertyローマ字のせいだと僕は考えるね。
たとえばサッカー選手なら、
蹴り終えたボールですら、共感覚を持つだろう。
まあ、言語レベルになるのは、
やはり言葉を書く道具に限られそうだ。
薙刀式の場合は、
空間的認知みたいなのも使ってるし、
他の人には見えてない色も使ってるし、
僕の中の視空間スケッチパッドとの一致なども使ってるから、
身体的認知の枠内に入るかどうかは定義を知らないのでよくわかってないけど。
これを使わなくていいように、
多くの人は音韻ループや内声などの、
音情報でショートカットしてるのだと思われるので、
多数派である脳内発声あり派の機序が、
まずは一通り説明される事が優先だろう。
ただ人間というのはそれで終わりではなく、
熟達などの理由により、
なんらかの質的変化をすることがある、ことはありそう。
職人の誕生だね。
物書きは「感覚で書く」みたいなことがあり、
たとえば手癖を組み合わせて書くことは、
共感覚的な手段を使ってるような気がする。
ある種の自動化と、そのマクロ感覚みたいなことかしら。
はたして今の脳科学がそこに興味を持って研究してるのかは知らないが、
レアだがないわけでない、
むしろ技能の上達と関係ありそうな領域の気がする。
たとえば、
qwertyローマ字の熟達者が、
なかなか他の配列をやらないのは、
すでにそうした運指と意味の共感覚が強力に形成されていて、
発想と運動が異なる別の配列へのコンバートが、
共感覚がない人以上に困難になるからでは、
と予測される。
共感覚の組み直しは、
外国語を学ぶ以上の、
母国語の変更くらいの苦痛を伴うだろうな。
ていうか、変更できないくらい奥深い感覚かもしれない。
僕がどうやったって手書きの感覚をタイピングは超えられないじゃん、
ってくらい根深い可能性があるね。
2026年03月28日
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