本来文章は数値化して評価できるものじゃないよね。
(売上とかあるかもだが)
それを急に競技にしたから話がややこしいのかもなー。
もともとタイピング競技って、
内容を書くわけではない、
別の偉い人が書いたものを清書する、
秘書たちの競技だった。
そこが歪みの始まりか。
今でも本文を書く人と、
清書する人が分かれていたら、
競技タイピングは意味のある大会だったろう。
秘書検定の一部に組み込まれてただろうね。
ていうか、これがあったせいで、
qwerty配列は固定されたんよな。
前使えた技能が他のところでも使えるように、
という秘書たちの希望だったわけだ。
Windows以降、
タイピングは自分でやらなきゃいけないことになった。
(ていうかDXは結局全部自分でやれみたいなことになってる。
そのかわり安くなったのかもだが、
人件費というフローが回らなくなったから、
大局的には貧乏を招いている)
自分でやるべきタイピングで、
どういう理屈で速い方がいい、
って言われてるかは、
生産性という指標だ。
タイパだね。
時間あたりの生産文字数が多い方が稼げるだろ、
という理屈だ。
ほんとうかな?
同じ質のものを量産するような、
工業製品だったらその計算はできるけど、
文章というのは質も内容もバラバラな、
工業製品の指標で語れないものなのでは?
秘書の効率も、生産性も、
全部産業革命のパラダイムで測定してるよね。
それってほんとにちゃんと測れてるのかねえ。
僕の中で、なぜ速くなりたいか、
という理由はひとつで、
「脳の中のモヤモヤを、蒸発する前に形として定着したいから」
だ。
実はこの理由を述べてる人は、
ほとんどいないことに気づいた。
だから、作文のことなのに、
秘書検定の理論で議論してしまうのかもしれない。
脳科学アプローチは、
秘書検定の理論とは一線を画したものではあるが、
「そもそも私たちはなぜ書きたいのか」
「何を書きたいと思うのか」などまでは、
脳科学の領域じゃないから、
結局我々芸術の分野の人間が、
担当するしかないんだろうなー、などとぼんやり考えている。
競技タイパーの理論化されたものは、
僕はずっと心に響かない。
目的が違うからだ、と理解してたけど、
数値化できないものを数値化してるからなのかもしれない。
「蒸発する前に速く書きたい」というのは、
0.何秒で書ければよい、
という数値目標で語れるものでもなさそう。
いちおう基準としては2000字(変換後)/10分としてるけど、
そうじゃなくてもいいかもしれない。
僕は手書きでできることがデジタルでできないことに、
ずっと文句を言ってるだけだ。
暗いと不平をいう代わりに、なんらかの明かりをつけてみたわけだ。
それがベストとも次のスタンダードというつもりはないので、
いろんな別解を知りたい。
だけど、なかなか自由文の動画をあげてくれる人が少ないので、
うーんこんなこと考えてる人、
あんまいないのかなーなどと思ってしまう。
2026年03月29日
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