部分にとらわれているかどうかのチェックにも使える。
「今結局何を考えているんだっけ」が分らなくなったときに、
「全体を書く」という方法論は使える。
よく人生を考えるときに、
「これまでのことやこれからのことを書き出してみる」
という方法論がある。
「これから人生で達成したい10のこと」とかね。
これは「全体を俯瞰することで、
まだ気づいていない意識外のことに気づく」ためにある。
過去を俯瞰したら、
「忘れているが、自分はこんなことをしたのだ」
というものを思い出すこともある。
アルバムを見る行為、日記を見返す行為は、
そういうことだ。
人間の処理力には限界があるので、
「すべてを一気に脳内に展開すること」ができない。
あるものは強調されて多くを占め、
あるものは弱いから省略されて意識外に行ってしまう。
「今そのことを考えて、頭の中に展開した姿」は、
正しい姿ではない可能性が高い。
いや、簡単なことならいいよ。
買い物に行って○と○と○を買う、
などは頭の中に展開することは可能だ。
でもそこで「途中でコンビニに寄り、○○を追加で買う」と増えてしまったときに、
たいてい最初の買い物は一個くらい忘れてしまうものだ。
人間の頭のなかは無限ではないため、
有限の広さをどう使うか、と考えるべきなのだ。
机にたとえてもよい。
あんまりその机は広くない。
お絵描きの道具で色々描いているときに、
楽器や飯を広げることはできないのだ。
ストーリーというのはとても複雑で、
今書いている場面を机に広げるのでせいいっぱいで、
なかなか俯瞰することは出来ないのだ。
その俯瞰をつくるために、
「全体を書く」ということは重要である。
その「全体を書く」とはどのようにして、
だろうか。
僕は、3行プロットを書くとか、
キャッチフレーズを書くとか、
予告編をつくるとか、
そういうやり方がいいと思っている。
しかしこれはある程度完成しているときの話なので、
まだ未完でありながら全体を知りたいときは、
「大まかなプロットを800字程度で書きだす」
がいいと思う。
「箇条書きで、起こることを最初から最後まで書く」もいいと思う。
何にせよ、
「頭から尻まで通す」が重要で、
自分にとって、「全体は何で、どういう部分がそれをつくっているか」
ということを明らかに出来る。
そして、全体のバランスの中での、
部分の分量を見ることが出来ると思う。
もちろん、図を描いたり、表にしたりしてもよい。
重要なことは、
「自分の頭の範囲内で扱える程度、
すなわち机に広げられる程度に、
全体を表現する」ことだ。
ナプキンライティングと読んでる僕が開発した手法は、
飯屋の小さい紙ナプキンに全体を書く、という方法で、
小さい紙かつ深く考える場所でないところで、
全体だけを捉えようとする方法論だ。
これをすることで、
「一体これは何をしようとしているのか」
「一体これは何ができていたのか」
を把握することが出来る。
そうすると、
「ここから全体を○○のようにするには、
何をどうすればいいだろう?」
を考えることがしやすい。
全体が見えていないと、
下手な整形手術みたいに、
部分で見たら整っているが、
全体から見たらへんてこになっていることだろう。
絵を描いたことのある人なら分るが、
部分にこだわって、
全体のデッサンが狂うのを防ぐには、
下がって全体から受ける印象を見るしかない。
そのうえで、全体と部分の関係を見て、
部分をその判断によって描き直すわけだね。
ストーリーでそれをやることは大変難しい。
ストーリーは変転していく現在そのものであり、
静的な姿をしていないからだ。
しかし、頭から尻までの変化変転全体を眺めれば、
少なくともその全貌を俯瞰することができる。
ここが面白くないとか、ここは面白かった、
などのような客観的判断もできるようになる。
こうして、全体をみたうえで、
「じゃあ最終形はこういうものになりたい」とか、
「ここをこのように変形すると、全体はこういうものになるのではないか」
と思ったりして、
部分にメスを入れていくのだ。
いきなり気になるところから改訂すると、
へたくそな整形になるだろう。
涙袋だけが気になるからと言って、
無限に大きくする変な整形みたいになっちゃうよ。
地雷系整形モンスターみたいに、
あなたのストーリーを変形してしまわないことだ。
案外、日記は、
自分の人生に対して、
俯瞰的視点を提供するものなのかもしれないね。
昔の人は案外いい知恵を持っていたのだ。
2026年05月06日
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