何度か議論している重要トピック。
一人称は「どう思ったかでまとめられる」、
三人称は「何が起こったのかでまとめられる」、
という短い言葉にまとまったので、
議論してみる。
このあと「プロジェクトヘイルメアリー」
について例を挙げて議論したいが、
ネタバレに配慮して、
抽象的な議論を先にしておく。
一人称の舞台は自分の周りでもあるし、
自分の内部でもある。
だから自分の考えや意見をうまく表現できる。
だから、
「そのとき何を考えていたのか」
「そのとき、何をどう思ったのか」
について、豊富に書くことができる。
(当然、三人称ではそれは0に近い)
逆に、「自分から見た世界しか書けない」ので、
それを引いた目線から見たときに、
「結局どうだったのか」「ぶっちゃけ何が起こったのか」
を説明する視点に欠けていることが多い。
主観的で客観的でない表現になるわけだ。
「私から見たその世界」は書けるが、
「私が見ていない世界」は書けないわけだ。
ルポであり、ジャーナリズムではないということだ。
たとえば「クローバーフィールド」は、
街を怪獣が襲った様をドキュメントカメラで収める視点なのだが、
「何が起こってるのかを示す」がない。
一人称視点でゴジラを見ている話だ。
だから臨場感は抜群なのだが、
「で、なんだったの?」の視点が欠けてて、
見終わったあとつまらないのよね。
戦争という舞台で、
ある部隊の生き残りに密着した映画もよくあるが、
これも全体状況が見えないという意味で一人称的だ。
ほかにも、
コロナ禍を「自分の体験した世界」で語ることは一人称には出来るが、
「全体として何が起こっていたのか」を書くのは苦手だ。
映画「フロントライン」をみればわかる。
これは三人称形の映画ではあるが、
ダイヤモンドプリンセス号限定の映画なので、
その船の中で起きたことは描けているが、
世界でコロナで何が起きていたのか、
コロナとは何だったのか、
というぶっちゃけどうだったのか、
というのが一人称的で描けていないんだよね。
ルポにはなっているが、ジャーナリズムになっていない、
ということはそういうことだ。
エロで考えよう。
一人称は恋愛やセックス描写にむいている。
バラ色の世界、暗黒のひどい世界を書くのに、
色々な表現を使うことができる。
恋愛は主観的な世界でもあるからね。
だが、
セックスは冷静に見ると滑稽だよね。
覗き部屋みたいなエロイ空間で見るとセックスはエロくなるが、
昼間の明るい外でセックスしている人たちがいたら、
滑稽に見える。何してんのこの人たち、ってなってしまう。
夜とか照明が必要になるんだよな。
真昼間からディープキスしても引くだけだよな。
あれは夜で情報が足りていない状態だから、
なんかいいのである。
つまり、三人称とは、
あかるい昼間に出すべきもので、
一人称は夜の暗い空間や部屋の中が相性がいい。
ハードボイルド小説が一人称形式で、
夜やバー(酩酊の世界)を舞台にしているのは、
そういう理屈だろう。
で、結局、
一人称では「その気持ちや気分は何?」
という風にまとめられて、
三人称では「結局なんだったの?」
という風にまとめられるというのが本題。
ラストシーンに来た時の、
視点が違うということだ。
具体例を「プロジェクトヘイルメアリー」で議論しよう。
以下ネタバレします。
小説版は、一人称形式を存分に使っている。
記憶のない状態で目覚めた男が、
SF的な宇宙船の中で目覚め、名前も思い出せない状況で、
重力が地球近傍と違う数値であることをストップウォッチ実験で確かめて、
ここは太陽重力圏ではないことを知り、
見えた恒星の時点速度を測定して、
あれは太陽ではないことを知ることから、
物語は始まる。
このときの混乱、考えること、
今あるもので何ができるか考えること、
推論、結論などの過程がめちゃくちゃ面白い。
つまり、「何を思ったか」で存分に楽しませてくれる。
三人称である映画版では、
同じシーンは実験のシーンがカットされている。
「ぶっちゃけ何が起こっているのか」を中心に描くと、
目覚めた男が一人で宇宙船内にいることはすぐに分ってしまうし、
外を見てコンピューターと会話したら、
すぐに状況が分ってしまう。
小説版で第一章まるまる使った部分が、
「外からの客観視点で見れば、
男が冷凍睡眠で宇宙船にいて、
目覚めれば目的地の外宇宙の太陽の付近に到着した」
という「起こっていること」を三人称で見つめることで、
5分で終わってしまうわけだ。
小説の一人称では、
「帰りの燃料はない。
つまりこの任務はその太陽の謎を解いて、
報告を地球に送れば自分は死ぬしかない。
しかし記憶がない私は、
過去の自分が、
それと引き換えに地球を救う決意をしたのだろうと信じる」
ことで行動する。
だが映画版の三人称では、
その恐怖も、自負もないまま、
ただコンピュータを操作して、
何かをやるだけになっている。
片道切符であること、
成功しても失敗しても死ぬ運命の恐怖、
それと引き換えに地球を救う自負などは、
まったく感じないまま進む。
「誰か他人」が主人公だからだ。
多くの映画での、
「死と引き換えに地球を救うヒーロー」
と同列に並べられるので、
とくに珍しくない男に見える。
だがこれを主観的な一人称で見れば、
「映画では見てきた誰か他人のヒーローを、
自分でやらなければならないのか」
という主観的な、「役割の引き受け」が起こっている。
三人称ではこれが描けていないわけだ。
たとえば自分が父親になったとき、
「俺も父親だなー、父親らしくしないとな」
という「役割の引き受け」が起こる。
それによって、自分の認識が変容して、
考え方が変わっていく。
それは三人称では描けない。
外から見たら、男がじっとしているだけになる。
「認識の変容」を外から感じることは出来ないからだ。
彼がぼーっとした顔からきりっとした顔になったからといって、
「彼はこれから父親として生きていくことを自覚したのだ。
それは役割を引き受け、人生を変えていこうとすることであった」
のようには読み取れないわけだね。
そういう違いが、一人称と三人称にはある。
「過去の私がした決断は記憶喪失によって不明であるが、
この宇宙船で目覚めたということは、
私は最後自殺する為の道具を積んでまで、
人類を救いに来たのだ」を、
示す顔の表情はない。
さて。もっと大きな問題。
小説は全体的に、
「宇宙を冒険する自分の視点(かなり無茶ぶりばかり)と、
地球を自分が救うのだという自覚」
が面白さの最初の方向性であった。
だから、宇宙人と邂逅することは、
かなりの驚きでありツイストである。
(ここをネタバレするわけにいかないのだ!)
その宇宙人とどうやって知的に会話をつくっていくかが、
中盤の面白みの一つになっている。
だけど、映画は、
「ぶっちゃけこれは何が起こっていたの?」
が前面に出てしまう。
「結局これはエイリアンと友情をつくった話でしょ」
と、「客観的に起こったことからまとめる」が起こってしまうのだ。
一人称の、
「地球を救う自覚」
「宇宙人と最初に出会った地球人として、
その知性や生態を解明する喜びや名誉」とは、
まったく異なるわけだね。
三人称では、だからこのストーリーは、
異星人と少年が友情を重ねる「ET」に似ているわけ。
巨大ロボットと少年が友情を重ねる「アイアンジャイアント」にも似ている。
一人称では、
「ほかの小説の感情に似ている」
と思うんだろうか?
他に似ている小説があったらコメントください。
「地球を救う自覚と恐怖に目覚める物語」
「言語が通じていない未知の宇宙人と知性と感情をかわす、
知的興奮の物語」
という二つの軸があるのが妥当だろう。
これはETでもアイアンジャイアントでもないことは分る。
だから、
小説版と映画版は「別物」である。
一人称では、どう思ったか。
三人称では、何が起こったのか。
小説「プロジェクトヘイルメアリー」は、
死と引き換えに地球を救う英雄の自覚は勘違いだったと思い出して、
同じく孤独なもう1人の知性と、
お互いの故郷を救うために冒険する話だ。
つまり支配しているのは孤独と、
孤独同士の相互理解である。
映画「プロジェクトヘイルメアリー」は、
ダンスやゼスチャーで理解した人間と宇宙人の、
友情の物語である。
映画版がつまらなかったのは、
友情の物語としてはエピソードが薄かったことだ。
小説版では孤独感がたっぷりある。
「○○から○○には何時間かかる」
みたいな描写がすごく多い。
それを待てるのは孤独だからだ。
その孤独同士の相互理解が、
めちゃくちゃ描けているんだよね。
その孤独感が映画にはないので、
友情が薄っぺらく見えてしまう。
縮めていえば、
小説は孤独の物語、
映画は友情もの、とまとめられてしまうね。
心は舞台では見えない。
見えるのは所作と行動だけだ。
聞こえるのはセリフであり、
心の声ではない。
これらの道具の違いで、
一人称と三人称は、
得意な物語が違う。
そして、時々指摘するが、
脚本の初心者は、
三人称である脚本に、
一人称的なものを持ち込んでしまう間違いをする。
メアリースーはその最も典型的な症状のひとつである。
そしてその原因が甘えの無自覚であることで、
二重に間違っているのだ。
自分が裸であるかどうかは、
一人称では伏せることができる。
叙述トリックというやつだ。
それよりも何を思ったか、何を考えたかを、
一章かけて語ることができる。
だが三人称では何が起こっているかが大事で、
裸であることは最初の1フレームで伝わる。
「それからどうする?」が三人称だ。
裸で恥ずかしがるのか、堂々とするのか、
家に帰るのか、走り出すのか、
服屋に行くのか、逃げるのか。
そっちを追いかけるのが、三人称の物語である。
2026年04月07日
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