2026年05月10日

シュールで勝負するのは難しい

シュールはクラシックでなくてモダンに見える。
シュールは頭いいやつの娯楽に見えて、
馬鹿な大衆から優越しているように見える。

その優越感が、作品の質を落とす。


なんか面白いことをつくりたい。
でも出来ない。
そういう時は、シュールに逃げると、
比較的面白いことをつくれるよ。

たとえば、
「突然床に穴が開き、人が落ちる」
というシュールを考えよう。

これが楽しい人にとっては、面白い光景であろう。
それをして「面白い」ということは出来る。

だけど、それが微妙と思う人もいる。
たとえば妄想したことがあるから陳腐だ、
という上から目線の人もいるし、
そんなこと現実であり得るはずがないから感情移入できない、
という下から目線の人もいるだろう。
すべての人をシュールはカバーできない。

なぜなら、
シュールとは、
「既存の常識を崩す面白さ」だからだ。

既存の常識、背景の常識が共通でない場合、
同質性が高くない集団を相手にする場合、
シュールは威力を減ずる。
(逆にシュールが威力を発揮するときは、
集団内の同質性が高く、同じセンスを持っている集団のときだ。そして多様性の時代から、
現代で同質性の高い集団は形成しにくくなっている)

だから、シュールはそれがいいという人しか良くない、
という原理的な欠陥を持つ。


シュールでない面白さとは、
理性で考えられる面白さのことである。
○○が○○であるから面白い、
と理屈や因果関係があるものをいう。

しかしシュールは、それを超えているから面白いのだ。
突然床に穴が開くのに理由はいらない。シュールだからね。
それに人がアーッとかいいながら落ちていくのにも理由はいらない。
シュールだからだ。

で、これの面白さが分らない人にとっては、
「穴はなぜ開いたのか?」
「これを閉じる方法はあるのか?」
「落ちた人は助からないのか?」
「物理学的にどういう現象が起きているのか?」
「質量保存則は成り立っているのか?」
「自然現象なのか、人為現象なのか?
後者だとしたら犯人はいるのか?」
などが気になるということだ。

「細けえことは気にすんな」と言いたいところだが、
シュールという現実の文脈を破壊する面白さを理解しない人は、
現実ベースの面白さしか理解できないから、
こういう反応を真面目にしてくるんだよね。

もちろん、ある程度のフィクションは、
受け容れられる。
「床に突然穴が開く」というくらいなら、
「まあそういう話もあるだろう」
と今の観客ならば、ほとんど存在に理解を示すレベルだと思う。
それはこれまでどういうフィクションの奇妙な設定に慣れてきたかで、
決まると思う。


で。
仮にそれが存在することは合意したとしても、
それ以上のシュールはあまり許容範囲ではない。

たとえば、
「穴が閉じ、これらはなかったことになる」
という展開になったとしよう。

そしてその後この穴に触れることはなく、
話が終わってしまったとする。
そうすると、
「あの穴はなんだったんだよ」と、
シュールの存在を許さない人のほうが多いだろうね。

つまり、フリとしてのシュールは構わないが、
オチ(回収)がないものは、
理が合わないので存在を認められない、
ということだ。

嘘の一つや二つはフィクションだから付き合うが、
それがまったく理解できないものであるならば、
それは物語ではない、
というスタンスだ。

それは何だったのか、
それにどういう意味があったのか、
「床に突然空いた穴、それに巻き込まれて死んだ人たち」
にどういう意味があったのかが、
不明なものは、
物語で存在する価値がない。

わざと「価値」と書いた。
それは、ほかの物語と比べて、
という意味だ。

ほかの物語では、仮にシュールなものがあったとしても、
すべてそれらに意味があったのだ、
こういう事だったのだ、
と解決を含んでいる。
だから、単にシュールなものは、
それらに負けるぞ、ということを言っている。


もし今シュールなものが存在しない世界だとしたら、
単にシュールなものを出すだけで、
「新しい!」ってなって時代の寵児になれるかもしれない。
だがすでにシュールという概念は広く知られているので、
それだけじゃ威力がないわけだ。

なぜなら、
シュールなものを、意味のあるものまで着地している、
立派な作品がたくさんあるからだね。

それを無視して、
「シュールだからおもしろい」と言って、
それらを回収しないようなストーリーは、
全然面白くないよ、
ということを言おうとしている。


シュールを考えること自体は簡単だ。
ふつうと違うことをすればいいだけで、
それはクリエイティブなことをしようとする人の、
基本姿勢でもあるわけだ。

「シュールならなんでもいいから何か思いついて」と言われて、
2秒で思いつかない人は才能がないのでやめたほうがいい。
尻から煙が出たり、ラーメンが爆発するだけでいいのだから。

だが、難しいのは、そこからの着地なんだよね。
そこに理屈が通り、
意味があるようにつくるのは、
実は普通のことで理屈を通して、
意味があるようにつくるのと、
同じ労力が必要だ。

シュールだから才能があるのではない。
シュールなのに、意味が通り、
テーマまでうまく着地しているやつまで行って初めて、
才能があるといってもよいだろう。


シュールに逃げる人は、
そのへんのことが分っていない。
だから今日もシュールの城に閉じこもって、
「わかるやつがわかればいい」
「わからないやつはセンスがない」
なんて強弁しているんじゃないかしら。

シュールって危険な薬なんだよね。
自分がクリエイティブになった気がする。
初心者が陥る、はしかみたいなものさ。
posted by おおおかとしひこ at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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