タイパーの打鍵とは、
「ロールオーバーできるNキーを一気に潰す」
ことを打鍵塊としているのでは、
という仮説がこれまでのあらすじ。
で、これって自由に思う事を書くこと
(以下創作打鍵。この言葉も、小説や脚本など、
クリエイティブなものを書くことと勘違いされやすいが、
実際にはコピー打鍵との対義語で、
メールだって挨拶文だって創作打鍵だ)
の状態とは、まったく違うよなと思う。
コピー打鍵において、
タイパーの視点はこうであろう。
「どこまで先を見て、ロールオーバー塊の切れ目が訪れるか」だ。
その切れ目を発見してぐしゃっと潰す、
また先を見て切れ目を発見してぐしゃっと潰す、
そういうことの繰り返しだろう。
タイパーはよく「先読み」というが、
この「どこまで切れ目を先に発見できるか」ゲームをしているわけだ。
仮に5キーロールオーバーできたのに、
あせってて3キー先しか見えてなくて、
3キーロールオーバーしてしまい、
あーまだあったー、先読みできてねー、
なんてことがあり、
もっと先を見なければ、という反省をしているだろう。
無限に先が読めれば、
この先5キーロールオーバー、さらに4、次は8、次は2……
のようにスーパーナビになるに違いない
(そんなにはないだろうけど)。
これは、創作打鍵において、
「先が見えている」こととは違うよね、
という話。
仮にタイパーの視界を図にしてみる。
○が見えているところ、|がロールオーバー切れ目、●を見えてないところとする。
○○|○○○|○●●●……
という感じだろうか。
この場合2つ先まで塊が見えていて、
それ以降はぼんやり視界に捉えている状態。
今のロールオーバー塊を指が処理すればその先を目で捉えられる、
みたいなこと。
このスタック量がどれくらいかわからないが、
すぐれたタイパーほど、調子のいい時ほど、
先まで見えているだろう。
仮にこれをパケットモデルとする。
一方創作打鍵では、
こんなにはっきり見えていない。
そして区切りはロールオーバー塊ではなく、
文節単位だ。
いや、単語単位の時もあるし、
なんなら「単」「語」と、
接頭辞と分かれてるときもある。
そしてこれは、「順番にこない」。
仮に「単語」が出てこなかったとしよう。
●語、単●と、どちらのパターンで出てくるかは不定だ。
アレなんて言ったっけ、となるときに、
どちらも忘れえる。
それが鮮明になる時まで我々は打つことができない。
単●のパターンのときは、
「たん」まで打ってしまいそこから考える、までできるが、
それにしても「単語」まで出ないと打たないことの方が多い。
「たん」まで打ってしまって、
手癖で「たんご」まで出てきて、
言葉を思い出すこともある。
これが「手が思い出す」という状態だ。
僕は補助記憶装置として、
手書きの時はこれを使っているが、
タイピングではいまいち使えない。
手の動きの方が複雑だから、一意に決まりやすい可能性がある。
単語スケール以外でもこれは起こる。
「●●を●●する」みたいな文構造だけ見えているパターン、
「○○は●●ではない」みたいな、
主語と文意(結論)は見えているが途中が浮かばないパターン、
などの虫食い状態で浮かぶ事がある。
なんならさらに大きな構造として、
☆を文として、見えてないものを★とすると、
☆★★★★☆
のように、冒頭と結論は見えているのだが、
間の論点が見えてないこともとてもよくある。
間の論点1、2は見えているが、結論までにまだ飛躍があるときは、
☆☆☆★★☆になっているわけだ。
アウトラインエディタは、
この大きな構造を可視化して、
★の部分を考えようという補助道具だ。
つまり、我々の思考はマダラである。
○○☆☆という白と、●●★★という黒が、
モザイク状にバラバラにある。
そしてもちろんこれはデジタル文字なので白と黒の1/0だが、
ほんとうはグレーのグラデーションがある。
出かかってる白に近いグレーもあれば、
ぼんやりと見えている黒に近いグレーもある。
我々の思考はグレーの階調のマダラであり、
白く輝いたところだけが書けるところだ。
このとき、文節の切れ目が単位であり、
それを書けば○○…○○|になり、次のグレーを見つめられるわけだ。
もちろん、「○○は」と書けばいいのか、
「○○を」と書けばいいのか迷うこともあるから、
毎回文節終わりまで書けるわけではない。
そして、○○○○|まで書いてはっきりしたので、
次のグレーを白にしようとする。
つまり、書くこととは何かというと、
「頭の中にあることをスッキリさせる」ために書くのだ。
言語にならないなにかや、
一部はわかってることの残りをわかろうとすることが、
書くことだ。
つまり、「私はここまでは明確にわかっています」
をすることが書くことである。
なぜ私たちは書くのか。
頭をスッキリさせるためだ。
そしてなぜそれを伝えるのか。
みんながモヤモヤしてて明確でない部分を、
スッキリさせて共通認識としたいからだ。
だから文とは、筆者の頭の中で考えたことの地図のようなものだ。
分かってるから走れた道の記録みたいなことだ。
ただ、文というのは1次元なので、
地図や立体のような、頭の中にある構造を、
1次元体で書き記すしかないのだ。
だから文とは「校舎を案内するね!」に近い。
自分の思考の案内が上手にできた人が、
思考をスッキリと1次元にできた、
ということだ。
そしてその考えが、
作者だけの独りよがりならオナニーと呼ばれ、
みんなの頭の中に入った時、
いまいち明快でなかったグレーが白になってスッキリするとき、
文章として役に立つわけだ。
つまり我々は、スッキリするために文章を書く。
主語は、集合的無意識である。
文章が上手い下手には色々あるが、
修辞法に長けている人が上手い場合もあれば
(修辞法とはすなわち黒が白になる速度が速い方法、
ということだ)、
痒いところに手が届くのが上手い場合もあるということだ。
(ふつう白にできない黒を白にできる)
三島由紀夫は前者の代表。
「金閣寺」は前者の極みで、
書いてる内容自体はじくじくした男が金閣寺に火をつけただけだし、
明らかになった白も大したことがなかったね。
ただ、そんな大したことがないことを、
華麗なる文体で書ける腕前が日本一だといえる。
謝罪文であっても、
結局謝りたいのか謝りたくないのかどっちなんだよ、
ってなる変な文を書く人は下手だ。
結局謝ってる文を書ける人が上手い人だ。
さて、
では創作文において、
その水際である筆先で何が起こっているのかというと、
黒から白への転換だ。
(なんならもっと先の方のことで書ける部分を先に書いてしまい、
穴埋めする書き方だってOK。
結局前からの流れがあるので、
そこを全面的に書き直したほうが、
通りの良い文面にはなるけどね)
創作文における先読みとは、
順番に白に変わってゆく、
タイパーのような「読む」ではない。
自動的に黒から白になるのではなく、
黒から白に「する」のだ。
それを「考える」とよぶ。
創作文において、考える事がメインであり、
書くことは1%以下の労力だ。
タイパーの打鍵は、○○○|○○○|○○○|を処理することだ。
見ているところと使っているところがちがいすぎる。
そして創作打鍵に必要な文房具とは、
黒を白にしやすいものであるべきだ。
薙刀式は、文節の切れ目に来やすい、
話題の語のあとにくっつく繋ぎの語
(助詞、助動詞、動詞や形容詞の活用語尾、
句読点、漢字のあとひらがなになっている部分、
また逆の接頭辞、接続詞、
「ということで」「わけであるが、」などの繋ぎ部分など)
がとても打ちやすいので、
話題の語に集中できるのである。
補集合がクリアに○になってるから、
残りの●を思考すればいいわけだ。
上の文で言えば、
●●●が●●●●●になってるから、
残りの●を●●すればいいわけだ。
のような感覚からスタートしている。
つまり、先を見越しやすい。
かつ、助詞や句読点がシフトないし同時打鍵なので、
文節終わりで半拍置きやすくて、
これでいいんだっけ、と立ち止まりやすくなっていることもポイントが高い
(ブレーキ打鍵)。
僕は、文房具に最低限ここまでを求める。
しかるに、
qwertyローマ字も、
それを僕の何倍も速く競技で打てるタイパーの打鍵法も、
そうなっていないから、
qwertyローマ字は捨てるべきだし、
その打鍵法を取り入れても何にもならない。
タイピングゲームは創作文の役に立たない、
という論の根拠はここだ。
タイピングゲームは指を鍛えるレベルでは役に立つが、
「先読み」とか「打鍵塊を潰す」
みたいなレベルになると、
創作文でやるべきことと違う事を鍛える事になるのだ。
だから意味ない。
もちろん、秒1カナしか打てないレベルでは話にならないので、
秒2〜3カナは最低鍛えた方がいい。
その程度にしか、創作文には役に立たないよ。
もちろんめっちゃ鍛えれば秒7とか10カナとかいくのかもしれないが、
そのコストをかける暇があったら、
文章を書きまくることに使った方が、
「黒を白にすること」と指の関係を作る事ができる。
我々の目的は、打鍵塊を区切り続けることではない。
集合的無意識をスッキリさせることである。
そして、☆が増えると、
残りにある★がたくさん見えるようになる。
そしてその★を観察して☆にしてゆく。
それが科学や知の営みというものだ。
それをやるためにタイピングゲームをするのなら問題ないけど、
目的を見失ってるゲームはゲームよね。
あらゆる文章は、
人が見えたことの範囲だ。
その次を、我々は見ている。
2026年04月16日
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