身体感覚がないのに芸術は可能か、
という一般的な問いを議論してみよう。
僕は、身体性がないと難しいのでは、
という立場だ。
ピアノや楽器が一切弾けないのに、
作曲が出来る人はいるのだろうか?
鼻歌作曲家だろうか?
一曲や二曲はつくれても、
職業作曲家としてはしんどいだろう。
サザンの桑田は楽譜が読めずに、
鼻歌で作曲することは有名だけど、
ギターが弾けないということはないだろう。
そもそも歌っている。
肉体を通して考えていることは明らかだ。
身体性があると、
制限や閃きになる。
車の車庫入れを考えよう。
身体性がある、つまり車が手足のような感覚になっていると、
あそこはぶつかりそうだ、ここは入らない、
などが事前にわかる。
わかった前提で車を動かせる。
切り返しが一回必要だと事前にわかったら、
あそこで先に切り返してからにしよう、
などと事前に閃きをすることができる。
入らない、困った、から問題が始まらない。
すでに身体で答えを出して、
あとは遂行するのみになる。
つまり、脳で考えることはほとんどなくて、
身体が答えを先に出す。
「手を動かしながら考える」ということのほとんどは、
手でこねれば感覚で答えが出やすい、
ということだ。
作曲でもそうだと予測される。
音の響きやリズムやテンポ感や和音などが、
肉体感覚としてすでにできているから、
迷いもなく進めるのだと思われる。
逆に、迷い始めたら、
作品を作る作業は全然進まなくなる。
ああでもない、こうでもない、
というのはとても無駄だ。
風呂に入ったり、ぐっすり寝たあとに、
アイデアがなぜか整理されて、
いい形に変形していることがよくある。
これは脳で考える、形のないものよりも、
身体が形をつくって、それありきで変形したから、
という感覚になることが多いね。
つまり、
頭で考えることは、
形をもたない、抽象的なことが多い。
それが現実に作品として形をなすには、
身体性を持つから、
身体で考えたほうが早いわけ。
「AIは身体を持たないから、
痛みや恐怖の表現がわからない」
なんて底の浅い身体論をする人がいるが、
それは身体性を用いて、芸術をつくったことのない人なのだろう。
我々は、身体という制限を使って、
ものごとを整理している。
とりやすい位置に引き出しを置いたり、
行きにくいところに大きな箪笥を置いたりするような、
部屋と人の関係に似ているように、
作品を整理するのだ。
逆に矛盾は不快な痛みを伴うし、
ご都合主義は甘いケーキだが虫歯になってるようなものだ。
そしてそれは自身の甘さという、
根源的な痛みや後悔の身体感覚になる。
脚本において、
シーンの整理は、
まさにこの身体感覚でやっていることが多い。
ちょっと長いなーとか、
ちょっと複雑だなーとか、
ちょっと短いなーとか、
これの次はこれだなーとか、
そういうものは、
理屈よりも感覚で判断する。
それは、
複雑な理屈が、すでに身体化されていて、
身体感覚で理屈を呼び出さずに判断できるということだ。
すぐれた芸術家は、
だから言葉による理屈を使わず、
感覚だけで正解を出せる。
だけど、脚本という共同作業のものは、
感覚だけだと理屈が共有できないので、
理屈で感覚を曲げることがよくあり、
これがリライトの失敗の原因だ。
だから、感覚をうまく理屈化しないと、
おそらく他人(プロデューサーや制作委員会)と、
会話が成り立たないと思う。
ここの脚本論は、
どうしてもテキストレベルなので、
身体感覚を教えることはできない。
あるものを共同で見て、
こうしたらこうなるだろ、
と操作することで身体感覚は研ぎ澄まされるので、
脚本添削スペシャルは、
そうした身体感覚をつかむのに、
ちょうどいい題材だと思っている。
もちろん、
どんなやり方でも、
身体感覚はつくれる。
あなたはあなたなりの身体感覚を持てばよい。
テレビを長年見ていると、
「ここでCMだな」という感覚は分ると思う。
15分置きをめどとして、
切りのいい所でCMが入るもので、
よくできたものは、
CMの前後でターニングポイントになるようになっているからだね。
この尺に関する身体感覚をもっていると、
だいたいどれくらいの内容で15分になるか、
感覚で分る。
だから「そろそろCMだな」と思う感覚と、
「そろそろ盛り上げておくか」という感覚は、
書きながらつかんでいるということだ。
それは、書き終えてからページ数を数えるよりも、
全然正確に尺を掴んでいるということだ。
尺だけではない。
ストーリーラインが複数走っているときに、
あっちは今頃こうだろうという感覚や、
そろそろこっちもケアしておかないとな、
という感覚は、身体感覚である。
あるいは、相手はどう考えているのだろうとか、
相手はこうするつもりなのだろう、
などの空気的な感覚も、
身体感覚としてあると思う。
これらを、
身体感覚なしに書くことはかなり難しいと思う。
ああでもない、こうでもないと、
こねくり回して、
挙句違うものをつくりがちだと思うね。
僕は全然できないんだけど、
野球のうまい人って、
外野で守っているときに、
バッターが打った瞬間、
大体の落下地点に走れるじゃない?
打った瞬間に分るはずないと、
身体感覚のない僕は思うんだけど、
できる人に言わせると、全然分るっていう。
その差が、最初のダッシュの方向と強さを決めるわけで、
それが間に合わない人はフライが捕れない。
身体感覚は、
こうした、一発で正解を出す感覚や、
正解の近傍に速く到達する力がある。
正解だけではなく、
「これは間違い」「これは合わない」などの感覚もある。
だから、
ピアノを弾ける人は、作曲が出来る。
逆に、楽器が弾けない状態で作曲するのは、
かなり難しいんじゃないかしらと予想する。
多くのDTM(Desk Top Music)が出来たけど、
おそらく楽器が弾ける人がやったほうが、
圧倒的に使うのは簡単だろうね。
だってその前の基礎ができているわけだからね。
とくに音楽は身体で受け止めるものだから、
身体感覚があることはとても重要だと思う。
じゃあ映画も、身体で受け止めるものじゃんね。
身体感覚のないストーリーは、
やっぱりつまらないと思うな。
身体感覚を伴った表現(宮崎映画における、浮遊表現など)と、
身体感覚を用いてストーリーを構築する感覚は、
まったく別のものだ。
根っこは同一かもしれないが、
この項では後者の話をしてみた。
AIのストーリーは、これを用いていない。
「そろそろ前振ったアレが落ちになるだろう」
という身体的予測を、
簡単に裏切るよね。
そして気持ちのいい裏切りじゃなくて、
不快なものになっている。
それは、身体を用いて書いていない、
身体を通して得られる知を使って書いてないからだと思う。
2026年06月13日
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