2026年06月13日

ピアノが弾けないのに、作曲が出来るか

身体感覚がないのに芸術は可能か、
という一般的な問いを議論してみよう。

僕は、身体性がないと難しいのでは、
という立場だ。


ピアノや楽器が一切弾けないのに、
作曲が出来る人はいるのだろうか?

鼻歌作曲家だろうか?
一曲や二曲はつくれても、
職業作曲家としてはしんどいだろう。

サザンの桑田は楽譜が読めずに、
鼻歌で作曲することは有名だけど、
ギターが弾けないということはないだろう。
そもそも歌っている。
肉体を通して考えていることは明らかだ。


身体性があると、
制限や閃きになる。

車の車庫入れを考えよう。
身体性がある、つまり車が手足のような感覚になっていると、
あそこはぶつかりそうだ、ここは入らない、
などが事前にわかる。
わかった前提で車を動かせる。

切り返しが一回必要だと事前にわかったら、
あそこで先に切り返してからにしよう、
などと事前に閃きをすることができる。

入らない、困った、から問題が始まらない。
すでに身体で答えを出して、
あとは遂行するのみになる。

つまり、脳で考えることはほとんどなくて、
身体が答えを先に出す。
「手を動かしながら考える」ということのほとんどは、
手でこねれば感覚で答えが出やすい、
ということだ。

作曲でもそうだと予測される。
音の響きやリズムやテンポ感や和音などが、
肉体感覚としてすでにできているから、
迷いもなく進めるのだと思われる。

逆に、迷い始めたら、
作品を作る作業は全然進まなくなる。

ああでもない、こうでもない、
というのはとても無駄だ。

風呂に入ったり、ぐっすり寝たあとに、
アイデアがなぜか整理されて、
いい形に変形していることがよくある。
これは脳で考える、形のないものよりも、
身体が形をつくって、それありきで変形したから、
という感覚になることが多いね。


つまり、
頭で考えることは、
形をもたない、抽象的なことが多い。

それが現実に作品として形をなすには、
身体性を持つから、
身体で考えたほうが早いわけ。


「AIは身体を持たないから、
痛みや恐怖の表現がわからない」
なんて底の浅い身体論をする人がいるが、
それは身体性を用いて、芸術をつくったことのない人なのだろう。

我々は、身体という制限を使って、
ものごとを整理している。
とりやすい位置に引き出しを置いたり、
行きにくいところに大きな箪笥を置いたりするような、
部屋と人の関係に似ているように、
作品を整理するのだ。

逆に矛盾は不快な痛みを伴うし、
ご都合主義は甘いケーキだが虫歯になってるようなものだ。
そしてそれは自身の甘さという、
根源的な痛みや後悔の身体感覚になる。


脚本において、
シーンの整理は、
まさにこの身体感覚でやっていることが多い。
ちょっと長いなーとか、
ちょっと複雑だなーとか、
ちょっと短いなーとか、
これの次はこれだなーとか、
そういうものは、
理屈よりも感覚で判断する。

それは、
複雑な理屈が、すでに身体化されていて、
身体感覚で理屈を呼び出さずに判断できるということだ。

すぐれた芸術家は、
だから言葉による理屈を使わず、
感覚だけで正解を出せる。


だけど、脚本という共同作業のものは、
感覚だけだと理屈が共有できないので、
理屈で感覚を曲げることがよくあり、
これがリライトの失敗の原因だ。

だから、感覚をうまく理屈化しないと、
おそらく他人(プロデューサーや制作委員会)と、
会話が成り立たないと思う。


ここの脚本論は、
どうしてもテキストレベルなので、
身体感覚を教えることはできない。

あるものを共同で見て、
こうしたらこうなるだろ、
と操作することで身体感覚は研ぎ澄まされるので、
脚本添削スペシャルは、
そうした身体感覚をつかむのに、
ちょうどいい題材だと思っている。

もちろん、
どんなやり方でも、
身体感覚はつくれる。
あなたはあなたなりの身体感覚を持てばよい。


テレビを長年見ていると、
「ここでCMだな」という感覚は分ると思う。
15分置きをめどとして、
切りのいい所でCMが入るもので、
よくできたものは、
CMの前後でターニングポイントになるようになっているからだね。

この尺に関する身体感覚をもっていると、
だいたいどれくらいの内容で15分になるか、
感覚で分る。
だから「そろそろCMだな」と思う感覚と、
「そろそろ盛り上げておくか」という感覚は、
書きながらつかんでいるということだ。

それは、書き終えてからページ数を数えるよりも、
全然正確に尺を掴んでいるということだ。

尺だけではない。
ストーリーラインが複数走っているときに、
あっちは今頃こうだろうという感覚や、
そろそろこっちもケアしておかないとな、
という感覚は、身体感覚である。
あるいは、相手はどう考えているのだろうとか、
相手はこうするつもりなのだろう、
などの空気的な感覚も、
身体感覚としてあると思う。


これらを、
身体感覚なしに書くことはかなり難しいと思う。
ああでもない、こうでもないと、
こねくり回して、
挙句違うものをつくりがちだと思うね。

僕は全然できないんだけど、
野球のうまい人って、
外野で守っているときに、
バッターが打った瞬間、
大体の落下地点に走れるじゃない?
打った瞬間に分るはずないと、
身体感覚のない僕は思うんだけど、
できる人に言わせると、全然分るっていう。

その差が、最初のダッシュの方向と強さを決めるわけで、
それが間に合わない人はフライが捕れない。


身体感覚は、
こうした、一発で正解を出す感覚や、
正解の近傍に速く到達する力がある。
正解だけではなく、
「これは間違い」「これは合わない」などの感覚もある。

だから、
ピアノを弾ける人は、作曲が出来る。
逆に、楽器が弾けない状態で作曲するのは、
かなり難しいんじゃないかしらと予想する。

多くのDTM(Desk Top Music)が出来たけど、
おそらく楽器が弾ける人がやったほうが、
圧倒的に使うのは簡単だろうね。
だってその前の基礎ができているわけだからね。

とくに音楽は身体で受け止めるものだから、
身体感覚があることはとても重要だと思う。

じゃあ映画も、身体で受け止めるものじゃんね。
身体感覚のないストーリーは、
やっぱりつまらないと思うな。


身体感覚を伴った表現(宮崎映画における、浮遊表現など)と、
身体感覚を用いてストーリーを構築する感覚は、
まったく別のものだ。

根っこは同一かもしれないが、
この項では後者の話をしてみた。


AIのストーリーは、これを用いていない。
「そろそろ前振ったアレが落ちになるだろう」
という身体的予測を、
簡単に裏切るよね。
そして気持ちのいい裏切りじゃなくて、
不快なものになっている。
それは、身体を用いて書いていない、
身体を通して得られる知を使って書いてないからだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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